11月 紅葉・ドウダンツツジ
―ひときわ赤い満天星、バレリーナの脚が美しいー
11月も気候は穏やかでした。晴天に恵まれ、雨の降ったのは数日しかありません。もちろこんちん台風も来ず、大きな災害もありませんでした。気温はいつまでも高く、日中は過ごし易い日が続きました。そのためか、いつまで経っても街のあちこちでカンナが咲いています。実は今年の夏、本稿でカンナの花を取り上げようと思い、毎日近くの小川の川原へ出掛けては、カンナの花を撮影していました。しかし余りの猛暑に花の咲き加減が悪く、葉も元気が無くて枯れてしまいそうになっていました。それでカンナは諦めたのですが、それがどうしたことか、秋になって涼しくなりますと元気を取り戻し、ポツンポツンと咲き始め、11月中旬になって周囲は冬景色に移り変わろうとしているのに、まだ咲き続けています。夏の花カンナも余りの暑さに開花できなかったのでしょうか。北の国からは初雪の便りが聞かれ、冬が間近に迫って来ても、まだカンナが咲いている? 今までこんなことがあったでしょうか。
一方、近所の街路樹の紅葉は、夏から秋にかけて何度となく到来した台風のために葉が落とされたのか、今一つ冴えません。例年ならば夥しい数の紅葉や黄葉で樹の枝や幹が見えないほどになりますが、今年は透け透けで少ない葉の間から青空が眩しく覗きます。そんな寂しい街路樹の下を自転車で走っていましたら、例年と変わることなく着実に紅葉している樹があります。ドウダンツツジです。背が低いため台風の影響を逃れたのでしょうか。小さいながらひときわ鮮やかな紅い葉が密集し、木全体がこんもりとした紅い山のようになっています。
ドウダンツツジは、漢字で「灯台躑躅」とも「満天星」とも書きます。灯台とは、海難から船を守る灯台ではなく、江戸時代まで夜間の明かりに用いられていた照明具のことです。様々な形のものがありますが、その一つである結び灯台がドウダンツツジの枝が三本ずつに分かれる様子に似ているためにトウダイツツジと名付けられ、それが転じて「ドウダン」となったそうです。また「満天星」とも書きますが、春に釣鐘様の白い小さな花が満天の星のようにたくさん咲きますので、この名が付きました。
私は以前、三つ葉つつじの写真を撮っていた時に「つつじは脚が美しい」と思いました。今回ドウダンツツジを撮っていて、さらにその感を強めました。冒頭の写真のように、鮮やかな紅葉を支える細くて長い幹や枝は、微妙な弧や曲線を描き複雑に交差しながら、華麗でしなやかなシルエットを描きます。まるで「白鳥の湖」を踊るバレリーナのようです。
フランスの印象派の画家、エドガー・ドガ(1834-1917年)は、バレー・ダンサーを描いた名作を数多く描いています。そのうちの一つ「舞台の上の二人の踊子」の絵は、二人のバレリーナがつま先だって踊りながら舞台の中央へ進んで行く構図になっていますが、上の写真の2本のドウダンツツジは、その仕草を真似ているようです。
「満天星」と書いて「どうだん」 |
ドウダンツツジは、3本に分かれた枝先に花をつけます。その花の付着部はどうような構造になっているのでしょうか。左上の写真のように、枝の先端には数枚の若葉を持つ軸があり、その周囲に5~6個の白い花が垂れるようにして咲いています。上から見ますと、若葉の軸と花の軸の基部は同じ部位から出ています(右上)。若葉の軸は3~4本あり、それが徐々に伸びて枝になります(左下)。秋になりますと、花の付着部に実が成り、三本の枝先には赤い新芽をつけます。こうして翌年は新芽の部分に花が咲き、若葉が伸びてまた3~4本に枝分かれして行くのです。
満天星と書いて「どうだん」または「どうだんつつじ」と読むとはまったく知らず驚きましたが、さて満天の星、皆様も何度か巡り会われたことがあると思います。私の印象に残っているのは、北アルプスの山中で見上げた満天の星です。学生時代には山に登っていましたので、穂高連峰登山のベース・キャンプとなる唐沢から何度か見上げた星空です。それと社会人になって上高地から少し入った徳沢小屋へ泊まった時、夕食後仲間と一緒に梓川まで出掛け、川原で寝そべって見上げた時の満天の星です。
星空と聞いて想い浮かべるのは、やはり宮沢賢治(1896-1933年)です。名作「銀河鉄道の夜」をはじめ「双子の星」など、星や星座の登場する童話を多数書いています。賢治は子供の頃から、文学と同じぐらい自然科学、とりわけ地学や天文学、生物学などが好きでした。賢治には3人の妹がいましたが、長女のトシは賢治のかけがいのない理解者でしたが、24歳の若さで結核にて死亡します。「けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ」という有名な句で始まる「永訣の朝」は、トシ臨終の際の心情を詠んだ詩です。次女のシゲとは年が離れていることもあり、賢治はずいぶん可愛がったようです。シゲの兄賢治への回想をまとめた「屋根の上が好きな兄と私 宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録」(蒼丘書林)という本があります。2017年に出版されたものですが、そこには家族の中の賢治の姿が、ありのまま愛情を込めて描かれています。少年の頃、賢治は家の屋根に上るのが好きで、シゲもよく連れられて上ったそうです。回想録からの一節です。
お空にはいつか大きな星、小さな星が数知れぬ星空になっています。早く降りましょうと誘っても降りない兄を残してお夕飯の席に座りましたが、・・・(中略) 何べんか「風邪を引いたらどうする」と注意されても屋根に上がって大空の星を眺める兄のくせはなおりませんでした。
自らもチェロなどの楽器を演奏し農民オーケストラの結成を夢見ていた賢治は、自作曲を幾つか遺しています。そのなかで最も有名なのが「星めぐりの歌」です。
星めぐりの歌 あかいめだまの さそり オリオンは高く うたひ 大ぐまのあしを きたに |
この歌では、いくつかの星座が平易な言葉と緩やかで親しみやすいメロディで歌われます。子供に星座の名前を覚えさせるための歌でしょうか。子守歌でも良いように思います。母親が赤ちゃんをあやしながら星座の歌を歌う、赤ちゃんは夜空の星を思い浮かべながら眠りに就くことでしょう。早逝した最愛の妹トシのために作ったという説もあります。そのためでしょうか、私には何となく哀調を帯びた曲のように聞こえます。
私は満天の星を見る時、その雄大さ、凄さ、無数ということに驚き、圧倒されます。ただただあっけに取られ、気の遠くなるほど広い星空を見上げるばかりです。何も考えられず、無数に輝く星の彼方に拡がる漆黒の宇宙空間へ吸い込まれていくような恐怖感にも似たものを感じます。するとそのうちに、何かしらもの哀しい気持ちが湧き起こって来るのです。無窮の宇宙の中に1人ぽつねんと置かれたちっぽけな自分、自身の生きる意義や方向さえ見失しなってしまいそうな壮大な宇宙、その中でたまゆらの時間を生きる人の命の儚さ、人間にとって宿命とも云える「生きるということの哀しさ」のようなものを感じ、何故かしらもの哀しい気持ちになります。それは何度見ても変わりません。ことに人生も終盤になりますと余計強く感じます。賢治は満天の星を見上げている時、何を感じていたのでしょうか。理想を実現できず、苦難の生活を強いられている我が身の不遇を嘆いていたのでしょうか。あるいは亡くした最愛の妹トシを偲んで涙ぐんでいたのでしょうか。それらの感情を超越した高い次元の「さとり」のような境地で眺めていたのでしょうか。理解されることのほとんどないまま一生を終えた賢治、星空を見上げながら何を想っていたのでしょうか。
さて病院の話題ですが、今回は新病棟が開院して桑員地区で初めて診療が可能となった放射線治療について報告致します。
放射線治療は6月から開始され、11月16日までの約半年間で44人の患者さんの治療を行いました。疾患別では肺がんが最も多く16人、続いて乳がん10人、大腸・直腸がん6人、前立腺がん4人などとなっています。放射線治療は大別して、「がん」を根本的に治療する根治治療と、「がん」の骨などへの転移により痛みの強い部分に放射線を照射して疼痛を和らげようとする症状緩和治療があります。44人の患者さんは、根治治療が30人、症状緩和治療が14人となっています。根治治療を行った患者さんの疾患別内訳は、肺がん11例、乳がん8例、頭頸部がん3例、食道がん2例などです。このうち乳がんの8例は、いずれも乳房温存手術の後に放射線照射が行われたものです。これらの患者さんでは乳がんの発見が早かったために、手術は「がん」の部分を摘出するだけで乳房はそのまま残され、「がん」がリンパ節へ転移することを防ぐために、手術後に胸壁や腋のリンパ節へ照射します。乳がんは早期発見すれば乳房を温存することができ、治癒率も95%前後ときわめて高いのです。今までこの治療を行うためには愛知県や四日市の病院へ行かざるを得なかったのですが、それが本院でも可能となり半年間で8人もの患者さんを治療することができました。ほんとうに喜ばしいことです。なお本院の放射線治療に関しましては、12月に発行されます桑名市総合医療センターニュース(NEWS)vol.55に解説されていますので、是非お読みください。
(なおドガ「舞台の上の二人の踊子」の絵は、コートールド美術館のホーム・ページよりダウンロードしました)
平成30年11月
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)