名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

5月 麦秋(ばくしゅう)

―初夏(はつなつ)の風のざわめき、飛び跳ねる魚影―

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緑の麦畑

 5月になりました。一年で最も爽やかな風の吹く季節です。皆さん方はどのように新緑の素晴らしい季節をお過ごしでしょうか。
 私は休みの日など時間のある時には、運動のため自転車で走ることにしています。自転車といってもママチャリですが、自宅から西の山の方へ向かってまっしぐらに走ります。
 そこには整然と区画整理された広大な田園が広がっていて、その中を車一台が通れるほどの舗装された道が碁盤の目のように縦横に張り巡らされています。その道を前後左右勝手気ままに走り回って1時間、これが私のサイクリングコースです。4月の終わりには田圃に水が入り、連休明けには田植えが終わりました。そんな中を初夏の風を切って走っていますと、所々に黄色い畑が散らばっています。近づいてみると麦畑です。麦は4月頃に穂をつけ、5月に入ると色付き収穫を迎えます。秋の稲穂のように黄変しますので、この季節を麦にとっての秋、麦秋と云います。

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 ただし麦の種類が異なるのでしょうか、畑によって発育に差があり、一面すっかり黄変している畑もあれば、まだ青いままの畑もあります。よく晴れた風の無い日、真っ直ぐ上へ向って伸び、ひしめき合うようにして並んでいる青緑の麦穂を眺めていますと、実直な青年をみるようなすがすがしさを感じます。 

 穂が熟して来ますと、まず「ひげ」の部分が赤味を増して来ます。すると薄黄緑色の穂から淡い赤色の炎が燃え上がっているように見え、緑の茎を柄にした松明(たいまつ)のように見えます。それが畑の遠くまでぎっしり並んでいるのを見ますと、送り火の松明が密集しているようで、水木しげるの妖怪の世界に出て来そうな一種異様な光景となります。

h2605-pho-04s淡い炎を上げる松明がぎっしり並んでいるようです

 

 しかしひとたび風が吹くと様相は一変します。畑一面をサーっと吹き抜ける風、次から次へとやって来る風に、まだ浅緑の残る薄黄の穂先が大きく揺れ動きます。そのうねりは、大海原の荒波のように畑の端から端まで順々に伝わって行きます。上から眺めますと、激しく揺れる穂先は、渦巻く海で水しぶきを上げながら群泳する飛び魚の大群のようです。たくさんの魚が海面すれすれに飛び、高く跳び上がるものもいます。渦巻く潮流と飛び跳ねる魚の大群、躍動感にあふれた光景です。

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風の日の麦畑。渦巻く潮流に群泳する魚が飛び跳ねているようです

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上の写真中央の飛び跳ねる魚の部分の拡大

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風に吹かれる麦穂

 風に吹かれている麦穂を近づいてよく見ますと、両手を挙げてホールドアップし、自分の身を風に任せて全てをあきらめているような表情をしています。

 

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すっかり黄色くなった麦畑

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ターナー  吹雪-港の沖合の蒸気船  ロンドン・ナショナルギャラリー蔵

 渦巻く潮流と云えばターナーの風景画を思い起こします。ジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775-1851年)は、18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したイギリスを代表する風景画家です。若い頃はロマン主義特有の物語性に富んだ風景画を描いていましたが、徐々に構図は抽象化され、広大な空間と明るい光、鮮やかな色彩に富んだ絵画を描くようになりました。代表作の一つ「吹雪-港の沖合の蒸気船」(1842年)は、嵐が来て荒れ狂う海を描いた作品です。青い空の黒い雲、黒い海面と白い波しぶきが渦を巻き、その中心に激しく揺れる船の影と帆が描かれています。自然の驚異をダイナミックに表現した作品で、まるで抽象絵画のようです。この絵を制作するためにターナーは、嵐の海に船を出し自分の体をマストにくくりつけて荒れ狂う海を観察したと云われています。 モネは1873年に「印象・日の出」を描き、ここから印象派が始まりました。ターナーはその30年も前から、印象派の絵画よりもさらに抽象性の強い、現在の抽象絵画に通じる絵を描いていたのですから驚かされます。モネは30歳(1870年)の頃1年近くロンドンに滞在し絵の修業をしましたが、その頃ターナーの絵を熱心に鑑賞したと云われています。印象派の画家達は、ターナーより大なり小なり影響を受けて独自の画風を形成していったのです。

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 ところで麦は世界で最古の穀物と云われ、1万年から1万5千年ほど前に中央アジアで栽培が始まったと云われています。麦には、大麦、小麦、はだか麦、ライ麦などいろいろな種類がありますが、すべてイネ科に属します。それぞれを正確に識別することはなかなか難しいのですが、この中で私達にとって馴染み深い大麦と小麦について両者の違いをまとめてみます。大麦はビールや麦焼酎、麦茶、麦ごはんなどに使われますが、小麦はグルテンを多く含むため小麦粉としてパンやうどん、パスタなどの原料となります。穂の構造は次のようになっています。大麦では穂は短く、小穂(実に相当します)は左右両側に隙間なく整然と並びます。一方小麦では穂は長く、小穂は1個ずつ独立して互い違いに実ります。小穂から出る「ひげ」を芒(のぎ)と云いますが、大麦では長くて皆上方へ伸びるのに対し、小麦では短く、方向にもばらつきがみられます。そのため手のひらで軽く握りますと、大麦では「ひげ」が馬の尻尾のように束になって揃うのに対し、小麦ではちくちくと手のひらが軽く刺されるような感じがするそうです。茎の構造も異なり、大麦の茎は太く中は空洞になっています。それで昔はストローとして使われました。そういえば私達の子供の頃は、喫茶店でジュースを注文しますと麦わらストローが付いていました。ちなみにストローとは英語のstrawのことで、麦わらという意味です。小麦の茎は細いのでストローとしては使えません。

 麦秋と云えば、小津安二郎監督の有名な映画があります。

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花嫁行列

 原節子、笠智衆らの出演により1951年に封切られた作品です。鎌倉を舞台にして、年老いた両親、東京の病院へ勤務する医師の長男(笠智衆)夫妻と子供達、会社員で独身の長女紀子(原節子)らが一緒に住む大家族の幸福をテーマとした作品です。適齢期を過ぎた紀子は、会社の上司より縁談を勧められ、まわりからも受けるように説得されます。そうこうしているうちに、戦争で亡くなった紀子の兄(次男)の同僚で、近所に住む医師の矢部が、急に秋田へ赴任することになりました。その出発の前夜、紀子は矢部の母親(杉村春子)から「ほんとうは紀子さんにお嫁に来て欲しかった」と打ち明けられます。紀子は即座に「私で良かったら・・・」と結婚を承諾し、上司からの縁談を断ります。迷いなく快諾した紀子の明るい表情が印象的でした。その後、両親は親戚の住む大和へ、紀子は秋田へ移り、長男夫妻だけが鎌倉に残って家族はバラバラになります。ラストシーンでようやく麦秋が登場します。大和へ移った両親は、麦秋の中を通り過ぎる花嫁行列を庭越しに眺めながら、遥か遠くへ嫁いで行った紀子の身を案じ、今までの人生を振り返って「幸せな人生だった」と感慨深げに呟きます。一緒に暮らしていても、やがては別れて行かなければならない家族、その宿命の中で生きていく人達の喜びや哀しみが、静かに丁寧に映像化されています。

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小津安二郎

 小津安二郎(1903-1963年)は、戦前から戦後にかけて活躍した日本を代表する映画監督の一人です。家族の幸福をテーマにした作品が多く、「麦秋」の他にも「東京物語」、「晩春」、「彼岸花」など数々の名作を遺しています。画面構成が独特で、カメラを固定し下から俳優を見上げるように撮影するロー・アングル撮影や、画面を縦に三分して両側をふすまや壁で仕切り、中央に部屋や廊下を配置して舞台とするなどの方法を用いて、小津調と呼ばれる独創的な映像世界を創り出しました。

 また小津映画では、俳優達は決して大げさな演技をすることなく、どちらか云えば淡々と役を演じます。独特の画面構成の中で演じられる俳優達の淡泊な演技に、観客である私達は古き良き日本の日常生活の世界へ誘われ、見終わった後に安堵感のようなものを感じます。小津監督の作品は世界的にも高い評価を受け、今でも黒澤明と並んで人気があります。小津は東京生まれですが、10歳の頃に父の郷里の松阪市へ移り住み、20歳で東京の松竹キネマ蒲田撮影所へ入社するまでの約10年間、三重県で暮らしました。今でも三重県にゆかりのある映画監督として県民に広く親しまれ、毎年のように小津映画の上映会が開かれますし、松阪市には小津安二郎青春館があります。

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原 節子

 一方の原節子(1920年― )も日本を代表する女優の一人で、2000年に「キネマ旬報」で発表された「20世紀の映画スター・日本編」では女優部門の第一位に選ばれました。小津映画に多数主演していますが、「晩春」「麦秋」「東京物語」では役名はいずれも紀子であり、紀子三部作とも云われています。これらの作品で、娘として妻として日本人女性のやさしさや美しさを見事に演じました。原は、小津の亡くなった1963年に事実上女優を引退しました。

 さて病院の話題です。新病院の建設に関しましては、二度の入札がまとまらず、本センター職員はもとより桑名市、市議会、医師会をはじめとする医療関係者、そして何よりも桑名市民の皆様方に、この上ないご心配とご迷惑をお掛け致しまして誠に申し訳ありません。東日本大震災の復興需要の急増、アベノミクス効果、東京オリンピックの招致決定などの要因が重なり、建築資材の価格や人件費が高騰し、深刻な人手不足に悩む昨今の建設業界の状況を鑑みれば致し方ないところでもあります。特にこの地方では、名古屋駅前の数棟の高層ビルの建設工事に膨大な数の人材が投入されており、それが終わるまでは新しい事業に着手できないという事情もあるようです。しかし、そうかと云って私どもと致しましても、手をこまねいてじっとしている訳にはいきません。新病院準備室では、現在、三度目の入札に向けて昼夜を惜しまぬ努力をしています。この努力が実り、そう遠くない将来に必ずや朗報をお伝えすることができるものと確信しています。どうぞ今しばらくお待ち下さい。それまでの間焦っても仕方ありませんので、冷静に少しずつ、できるところからやって行こうと考えています。4月に開設した周産期科もその一つですが、現在、東、西、南の三センターで別々に運営されている部門や部署の中で、現状のままでも統一あるいは協力して運用できるところは、その実現に向けて順次検討を進めています。今その作業に着手しているのは、栄養管理室、ME室、人間ドッグ室などですが、今後その範囲を拡げていく予定です。そして建設会社が決まり、工程が確定され、新病院開院の日時が決定しましたら、その日に照準を合わせて各部署の統合に向けての作業を、加速度を高めて推進していきたいと考えています。引き続きよろしくご指導とご協力の程お願い申し上げます。

(平成26年5月)

 竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)

 本稿に掲載致しました絵画、ターナー作、吹雪-港の沖合の蒸気船(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)は、Webページ「WebMuseum Paris」より転載し、作者名表記、及び作品名表記について翻訳翻案し、画像サイズを縮小しました。

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