8月 稲田
―黄と緑の柔らかなハーモニー、ゴッホの夢見た美しい日本の風景―
今年の8月は、7月に続いて異常気象の連鎖でした。相変わらずの酷暑に、次から次へと発生する台風、そして9月6日には北海道胆振東部地震が起こりました。気象庁の統計によりますと8月に発生した台風の数は9個で、これは1967年以来、実に50年ぶりのことだそうです。このうち2個が日本に上陸しましたが、この数は平年並みでした。ちなみに、台風の中心が北海道、本州、四国、九州の海岸線に達した場合を「上陸」、小さい島や半島を横切って再び海に出た場合は「通過」と呼ぶそうです。もっとたくさん上陸したような気もしますが、いずれにせよほんとうに天災の多い日本です。亡くなられた方々に謹んでお悔やみを、また被害に遇われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。
そんな異常気象のなか、季節は確実に進んでいました。私がいつも自転車で走る広大な田園地帯では、黄色と緑の稲田がモザイク模様のように並んで、柔らかなコントラストとハーモニーを醸し出し、遠くの山々に美しく映えます。この辺りでは、一毛作と二毛作の稲田が混在しています。一毛作では夏だけ稲を育てますが、二毛作では冬には麦を夏には稲を育てます。いずれも田植えは初夏に行われますが、二毛作では一毛作に比べ1か月ほど遅く、稲の生長も遅れます。8月に入りますと、一毛作の田圃では稲はすっかり成熟して黄色になりますが、二毛作の田圃ではまだ緑色をしています。そのため黄と緑のモザイク模様が出来上がるのです。日本の原風景とも云える美しい田園風景、それではご覧ください。
棚田二景 (上)稲田の黄緑と野草で覆われた土手の緑が整然とした美しいハーモニーを醸し出します。
画面中央の左寄りに白鷺(シラサギ)が小さく写っています。
(下)朝陽に映える棚田。すっかり色付いた稲田が、金色に美しく輝きます。
やがて稲刈りが始まりました。稲刈り機(バインダー)の進む後を白鷺の群が追いかけます。私は落穂をついばんでいるものと思っていましたが、白鷺は肉食ですので、稲が刈られ驚いて飛び出して来たイナゴやカエルなどの昆虫や小動物を食べているのでしょう。人間と鳥が仲良く共存する微笑ましい光景です。ちなみに白鷲という名の鳥はいなく、白い色をした鷺の総称なのだそうです。白鷲には、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アマサギの4種類があるそうですが、ダイ(大)、チュウ(中)、コ(小)で分けるとは、少し気の毒な気がします。もう少し良い名前はないのでしょうか。
上の絵は、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90年)が1888年に描いたものです。題名は「ラ・クローの収穫風景」とか「収穫」とも云われます。ゴッホは、1888年2月20日、2年間のパリでの苦渋に満ちた生活を捨て、明るい光を求めアルルへ移ります。ゴッホ35才の時です。3月には、友人の画家エミール・ベルナールへ宛て、次のような手紙を書いています。「この土地が空気の澄んでいることと明るい色彩効果のために日本のように美しく見えるということからはじめたい。水が風景のなかに美しいエメラルドと豊かな青の斑紋を描いて、まるで、錦絵のなかで見るのと同じ趣だ」。この頃に有名な「アルルの跳ね橋」を描きますが、画風は初期の頃の暗い色調から一変して、明るく色彩豊かになります。6月に入りますと、アルル郊外のラ・クロー平原へ毎日のように出掛けては、広大な麦秋の畑を描きます。その頃、弟テオに宛てた手紙です。「いま新しいモチーフにかかっているが、それは見渡す限りの緑と黄の畑で、もう二度もデッサンをしたが、いま油でやりなおしている。」(テオへの書簡496)。そして完成したのが「収穫の風景」です。この絵では、遠景に整然と区画された黄とうす緑の畑が拡がり、そのかなたに並ぶ青白い連山、空は青く澄んでいます。近景には、青い荷車を中心に農家や果樹園でしょうか、緑濃い樹々とそこで働く女性が描かれています。果樹園を囲む杭の一本一本がていねいに描かれているのが印象的です。また畑では、農作物の刈り取りから荷車での運搬、さらに積み上げなど、刈り入れ時の一連の農作業が描かれます。絵全体に力みがなく穏やかな調子で落ち着きがあります。すべての対象が輪郭鮮明に描かれていますので、見ている私達も安堵感を覚えます。ゴッホは、アルルへ来て日本のような明るい光景を目にして、余程嬉しかったのでしょう。またこの頃、ゴーギャンをアルルへ呼んで共同生活する話も進んでいましたので、その期待感から制作意欲も高まっていたのでしょう。ゴッホはしばしば「炎の人」と形容されますが、この絵を見る限り、とてもそんな激しい人には思えません。若い頃、牧師になったゴッホは、炭鉱で働く貧しい人達を救おうと自ら炭鉱に住み込んで布教活動に努めます。画家となってからも、貧しい娼婦を憐れんで生活を援助し結婚しようとまでします。ゴーギャンをはじめ他の画家仲間達と共同生活組織を作り、お互い生活を支援しながらそれぞれの芸術を高めることを夢見ます。ゴッホは、ほんとうは心やさしい理想主義者でした。ただ余りにも妥協を許さない完全主義者であり過ぎたため、常に他人と対立し孤立していったのでしょう。確かにアルルへ来てから半年ほどの間には、「穏やかさ」や「やさしさ」を感じさせる絵が多く、エネルギッシュに夥しい数の作品を創作しています。そして10月23日、待望のゴーギャンがアルルへ到着し、二人の共同生活が始まります。しかしお互い個性が強く、絵画に対する考え方も異なるため一緒に生活できる訳がありません。2か月もしないうちに共同生活は破綻し、失意のゴッホは左耳を切り落とします。その後アルルを離れ、精神病院などへの入退院を繰り返しながら、不安と妄想にかられる日々を送ります。それでも創作を続けるのですが、絵には緊張感や激情が増し、星や月や雲などを渦巻く炎のように描く、独特の筆致も登場します。この頃の絵を見ますと、確かに「炎の人」かも知れません。そして1890年7月29日、ゴッホは、日本に憧れてアルルへ移住してから1年半後、パリ郊外の農村にて37才の若さで自殺してしまいます。ゴッホの苦難続きの短い人生において、アルルでの半年間は、創作の上でも精神的にも最も充実した、かけがえのない時だったのかも知れません。
この絵の基調となる色は黄色ですが、私はゴッホの色は黄色だと思います。麦秋の畑の絵をたくさん描いていますし、「アルルの跳ね橋」、「夜のカフェテラス」「ひまわり」の連作、「カラスのいる麦畑」など多くの作品では、黄色が際立ちます。またアルル時代にアトリエとしたのは「黄色い家」でした。それで私は、春の麦秋の頃や秋の刈り入れ時の稲田など、一面黄色く色付いた広大な田園風景を見ますと、ゴッホを思い浮かべるのです。ゴッホが夢にまで見て憧れた日本の美しい自然や広大な田園の風景を、私達はごく身近に見ることができます。何と素晴らしいことではないでしょうか。
今回美しい稲田を提供してくれた田園地帯の端に、面白い建物があります。何かの工場ですが、壁は黄色、屋根は青、2本の煙突は赤色をしています。おとぎの国に出て来そうな家ですが、壁が黄色いので、私は勝手に「ゴッホの家」と呼んでいます。自転車で走る時、この家を眺めるのを楽しみにしています。
さて病院の話題です。8月24日(金)、桑名市総合医療センターの入院患者さんに特別メニューの夕食が供されました。本院栄養管理部顧問の岩田加壽子先生の企画で、志摩観光ホテル元料理長で顧問の宮崎英男さんと、高校生レストランで有名な相可高校の村林新吾先生をお呼びして調理していただきました。実はお二人には2年前にも三重サミットの開催を記念して患者さんの夕食を作っていただきましたが、今回は新病院の開院祝ということで、再び腕を奮っていただきました。厨房は朝から志摩観光ホテルの若手料理人や相可高校の生徒さん達、さらに当センターの職員が入り混じってあふれるほどになりましたが、6種類の料理の仕込みから調理、盛り付けまで整然と行われ、「さすが!」と感心しました。
メニューは次の通りです。
1)海の幸パナシェ サフラン風味
香味野菜のアリュメット添
2)伊勢海老クリームスープ
3)シェフサラダ マンゴードレッシング
4)海の幸と野菜
伊勢海老コンソメジュレと鮑のヴィシソワーズ
5)クレープシュゼット
6)あおさご飯
私もいただきましたが、さすが一流ホテルと日本一の高校調理クラブの皆さんが作ってくれた料理、何とも言えない深い味わいがあり抜群でした。常食220人分、嚥下困難な患者さん用の嚥下食約20人分を用意していただきましたが、患者さん達にも大好評でした。美味しい料理を作っていただいた皆さんに心より感謝申し上げます。有難うございました。
さらに桑名市内のこども食堂「太陽の家」から子供さん6人と理事長の対馬あさみさんほか保護者の方3人を招待し、味わっていただきました。現在桑名市内にはこども食堂が他にも4施設あり、今年は三重県全体のこども食堂の集会を桑名で開催するそうで、皆さん張り切っています。頑張ってください。私達もできる限り応援したいと思っています。
料理を作っていただいた皆さん(後列左端岩田顧問、
左より3人目筆者、4人目村林先生、7人目宮崎顧問)
絵画「収穫の風景」は、ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム、オランダ)のウェブ・サービス・サイトよりダウンロードしました。また文中の2通のゴッホの手紙は、「ファン・ゴッホ書簡全集、みすず書房 東京」より引用しました。
平成30年9月19日
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)