7月 ハルジオン(春紫苑)とヒメジョオン(姫女苑)
―初夏から真夏へ、知らぬ間の交代劇ー
今年の7月は、まさに異常気象の連続でした。まず西日本を襲った豪雨です。九州では今月3日頃より雨が降り始めましたが、台風7号の接近により梅雨前線が活性化されて雨脚が強くなり、5日から8日頃にかけて広島や岡山、愛媛などの中四国や九州地方に記録的な大雨をもたらしました。総雨量は1000ミリを超える所も多く、7月の通常の雨量の4~5倍にも達したそうです。東海地方でも6、7日は一日中雨が降り続きましたが、8日の日曜日には上がり、ほっとしてテレビのニュースを見ますと、まだ雨の降り続く西日本の各地で洪水や土砂崩れによる被害の発生していることを伝えていました。その時、私は被害がこんなに大きいとは夢にも思っていませんでした。ところが1日、2日と日が経つに連れ、想像を絶するような甚大な被害の実態が明らかになって来ました。7月22日現在、死者は224人、行方不明12人にも達し、今もなお4500人を超える人々が避難所で暮しています。1階がすべて土砂で埋った民家、土砂で水路が埋め尽くされ水の流れなくなった川、濁流に押し流され捨てられたように折り重なる自動車、落下した橋や曲がりくねった線路などの惨状を見ますと、今さらながら土砂洪水の凄さ、恐ろしさに言葉を失います。私の友人に、実家が愛媛でみかんの栽培をしている人がいますが、彼女の話によりますと、みかん山の被害は余りにも広範囲に拡がっていて、豪雨から2週間経っても、被害の実態調査は半分も終わっていないそうです。亡くなられた多数の方々のご冥福を謹んでお祈り申し上げますと同時に、ご家族や住居、田畑などを失われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
次は酷暑です。雨の上がった翌9日、東海地方では平年より12日も早く梅雨明けが発表されました。それ以後ずっと晴天が続き、25日までの18日間、一度も雨が降りませんでした。と同時に、今までに経験したことのないような酷暑の日が続きました。全国各地で暑さで倒れて救急搬送される患者が急増し、16日から22日までの1週間に過去最多の65人の方が熱中症で亡くなったそうです。7月23日には、埼玉県熊谷市で最高気温が41.1度と歴代最高を記録し、桑名市でも過去最高の39.7度に達したとのことでした。
私の記憶では、7月中旬にこのような猛暑の日が続くことは、今まで無かったように思います。地球温暖化の影響でしょうか、豪雨に猛暑、日本の夏は確実に熱帯化しているようです。
そんな異常気象の続く中、5月の連休頃から道端や野原、田圃の畔などを群れになって白く飾る野草があります。ハルジオン(春紫苑)とヒメジョオン(姫女苑)です。ともに北アメリカ原産のキク科ムカシヨモギ属の植物で、日本に移入されたものです。姿は良く似ていて遠くからでは区別できません。その区別の方法は後で記しますが、最も異なるのは開花時期です。ハルジオンは5月から6月上旬と早く咲き、それに遅れて入れ替わるようにヒメジョオンが花開きます。6月中旬から7月上頃がピークですが、その後も細々と夏から秋まで咲き続けます。
昨年まで私は、5月から8月、9月までの長い間、道端や田圃の畔などに咲いている白い花を見て、ずっと同じ花、ハルジオンだと思っていました。でも実際は違っていたのですね。初夏にはハルジオン、その後咲くのがヒメジョオンなのです。外から見たら同じようにみえるのに、いつの間にか演じる主体が変わっている、観客の知らぬ間の主役の交代です。人間の社会でもありそうな交代劇です。
上の写真は白と桃色のハルジオン、右の写真がヒメジョ
オンですが、どのように識別したらよいのでしょうか?
まず花びら(舌状花)の形態に違いがあります。左下のハルジオンでは糸のように細くて無数にあるのに対し、右下のヒメジョオンでは少し幅を持っていて、数もハルジオンほど多くはありません。しかしこのように並べてみるとその違いがよく分かりますが、単独で見た場合にはなかなか区別は困難です。
次に葉の茎への付き方に |
さらに茎を切断して断面を |
ハルジオンでは、開花した花が桃色であれば蕾も当然桃色ですが、白い花でも、蕾は桃色と白があります。一方、ヒメジョオンの蕾は、私の観察した限りでは白だけです。
面白いのは、ハルジオンの蕾は大きく曲がりくねって下に垂れることです。一見、そのまま萎んでしまうのではないか、と心配になります。「ええ若いもんがうなだれて・・・」なんて思わず檄(げき)を飛ばしたくなります。ヒメジョオンの蕾も垂れますが、ハルジオンほど顕著ではありません。それを上方から眺めますと、不思議な幾何学模様となります。
そこでハルジオンとヒメジョオンの花 |
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ハルジオンという名前は、春に咲く紫苑という意味だそうです。紫苑はキク科の野草で、秋に薄紫色の美しい花を咲かせます。この花の淡い紫色を紫苑色と呼んで、古くから染色などに使われて親しまれて来ました。この花を見ると、その人が心の中に抱いている想いを忘れないという言い伝えから、忘れな草とも呼ばれます。逆に、初夏の頃、ユリに似た美しい花を咲かせる萱草(かんぞう)は、その花を見ると余りの美しさに憂さを忘れるという中国の伝承から、忘れ草と呼ばれています。この紫苑と萱草にまつわる有名な話が、平安時代の説話集である今昔物語集にありますので、そのあらすじを紹介します。
今昔物語集 巻第31 第27
兄弟二人、萱草(わすれぐさ)、紫苑(しをん)を植ゑし語
今は昔、あるところに二人の男の子がいました。ある時、父親が死んで二人は深く嘆き悲しみ、一緒に父の墓へ参っては、涙を流しながら憂いや嘆きを語りました。年月を経て、二人は朝廷に仕え多忙となります。すると兄は「私はこのままでは癒されない。萱草という草は、見る人の憂さを忘れさせてくれるという。父を忘れるために墓へ植えよう」と言って萱草を植えました。
その後兄は墓参りへ行かなくなり、弟一人で行くようになりました。弟は、「私は絶対に父のことを忘れたくない。紫苑を植えて忘れないようにしよう」と紫苑を墓に植えます。弟は墓参りの度に紫苑の花を見続けましたので、いよいよ忘れる事はありませんでした。このようにして年月が過ぎ、ある日弟がいつものように墓参りをしますと、突然、墓の中から声がします。「私はお前の父親の屍を守る鬼である。父親と同様、お前を守ってやろう。お前の兄は萱草を植えて父親の事を忘れる事が出来たが、お前は紫苑を植えて父親の事を忘れなかった。お前の父親を慕う気持ちの深いことに感心した。私は鬼の身ではあるが、慈悲の心があり、ものを哀れむ心は深い。私はその日に起こる善悪の事を予知する力がある。お前のためにこの予言を夢で知らせてやろう」。
それからというもの、弟は毎日その日に起こる出来事を夢で見ることができ、身の上に起こるすべての事をはっきりと予知する事が出来ました。これは親を恋い慕う心が深かったからであります。このような事から、嬉しいことのある人はそれを忘れないために忘れな草の紫苑を植え、また憂いのある人はそれを忘れるために忘れ草の萱草を植えて、いつも見るべきであると語り伝えられています。
(参考資料 日本古典文学全集 今昔物語集(四) 小学館)
今昔物語集は、平安時代末期に成立したと云われる説話集で、全31巻、1000話を超える説話が集められています。天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成され、有名な「今は昔・・・」という書き出しで始まる仏教説話や民間の伝承、説話などが収載されています。ここで取り上げました紫苑と萱草の話では、父のことを忘れなかった弟は鬼から褒美を貰いますが、父のことを忘れた兄については何のお咎めもありません。私達に馴染み深い日本の昔話の多くは勧善懲悪を基本としていますので、当然兄には何らかの罰が与えられるのですが、今昔物語ではそれがありません。そこが興味深いところです。
今年の7月19日、日本を代表する脚本家であり映画監督であった橋本忍氏(1918-2018年)が100歳で亡くなりました。黒澤明監督の名作「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」などの脚本を監督と共に担当し、自らも「私は貝になりたい」「砂の器」「八甲田山」などの名画を世に送り出しました。なかでも1950年に制作された「羅生門」は、日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、以後黒澤映画が世界で注目されるようになりました。原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」と「羅生門」で、「鼻」、「芋粥」、「地獄変」などの代表作と同じように、今昔物語集や宇治拾遺物語の中の話から着想を得て書かれたものです。芥川龍之介は今昔物語集を愛読して高く評価し、次のように述べています。
「今昔物語は、野性の美しさに充ち満ちていて、美しい生々しさがあり、王朝時代のHuman Comedy(人間喜劇)である。その語られる世界は、宮廷の公家や姫君、君主だけでなく、庶民、とりわけ土民や盗人、乞食、さらには觀世音菩薩や大天狗、妖怪變化にまでに及び、有名な公家や高僧の三面記事的な話もある。『今昔物語』をひろげるたびに当時の人々の泣き声や笑い声の立ち昇るのを感じた」(評論「今昔物語鑑賞」より抜粋、改変)。確かに1000年以上前の人々が書き残した説話集ですが、話の中には現代社会にも通じる今日性を備えたものもあり、驚かされます。WEBには今昔物語集現代語訳(https://hon-yak.net/)というサイトがあり、世界に誇りうるこの説話文学を、現代語や英語に訳して、現代日本のみならず世界へも広めようとしている人達がいます。興味のある方は是非一度ご覧ください。
さて新病院が開院して3か月が過ぎました。開院早々の5月には、職員の不慣れや院内 システムのトラブル、部署間の連携不良などにより、採血や会計などにおいて長時間お待たせするなど、患者さんやご家族の皆様にこの上ないご迷惑やご不便をお掛け致しました。改めて深くお詫び申し上げます。他にもいろいろな問題が起こりましたが、それらを一つずつ慎重に検討して改善に努めて参りました。まだまだ不十分な点が多々ございますが、職員一 同これからも改善に努め、一日も早く皆様に信頼され、安心して療養していただける病院となりますよう頑張りますので、どうぞ今しばらくの間、ご寛容のほどお願い申し上げます。
開院当初より「病院の総合受付が3階にあるのは不便だ。なぜ1階にしなかったのか?」と云うご意見をしばしばいただきました。「主要な病院機能を3階以上に配置し、1、2階を駐車場にした理由を聞きたい」というご意見です。その主な理由は、防災上の対策に重点を置いたためですが、以下ご説明申し上げます。
◆本院の基本設計が始まった頃、東日本大災害が起こりました。多くの病院で津波により1、2階が破壊され病院機能が失われる惨状を見ていて、新病院では、体の不自由な患者さんの多い病棟や不特定多数の人が集まる外来部門は、津波の高さよりも高い位置に設計しなければならないと考えました。南海トラフによる地震が起こった場合、桑名市において想定される津波の高さは当初5mでしたので、1、2階を駐車場にしました。その後、津波の高さは2.4mに見直されましたが、その場合1階は浸水しますが、2階駐車場は無事ですので、地域住民の方々の一時避難場所として利用していただけます。また入院棟と外来棟を連絡する上空通路が3階以上にしか設置できないことも、3階をメインフロアとした理由の一つです。
◆院内に設置されているエレベーターのうち、1、2階が浸水しても3階以上で稼働するものが数基あり、病院機能を維持できます。また1階から3階までのエレベーターが使えなくなった場合には、救急患者などを搬送する救急車はスロープを使って3階まで上がれます。
◆非常用発電機は外来棟の5階に設置され、浸水による被害を受けないようになっています。その燃料を供給するオイルタンクやオイルポンプは地上にしか設置できませんが、2.7mの高さのコンクリート壁で周囲を囲ってあります。
8月15日
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)