名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

2月 福寿草(ふくじゅそう)

―幸せの国はいずこに―

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 年が明けて1月も半ばになり、寒さはいよいよ厳しくなって来ました。全国的にインフルエンザが猛威を振るい、北日本では連日の大雪で被害が相次ぎ、北アルプスでは遭難も続発しています。イスラム国の捕虜となった二人の日本人、世界中の人達の祈りもむなしく残念な結果に終わってしまいました。また名古屋では、またしても「人を殺してみたかった」という動機の殺人事件が起こりました。私達には想像もできない凄惨な事件です。これからの日本や日本人はどうなっていくのでしょうか。リニア新幹線の建設やオリンピック開催の明るいニュースが報じられる中、底知れない不安を感じます。

何となく憂鬱な気分の続く冬のある日、郊外の大きな植物園に勤める友人から、福寿草の鉢植えをいただきました。丸い平鉢に、ぽこぽこ幾つもの小山のようになった苔の間から、小太りの土筆(つくし)のような蕾が7本伸びています。暖かな冬の陽を窓越しに浴びて、嬉しそうに佇んでいます。何となくユーモラスなその姿は、眺める私達の心を和らげ、戸外の寒さを忘れさせてくれます。余程暖かかったのでしょう、日に日に花茎が伸びて1週間も経たないうちに花が開き始めました。

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 福寿草はキンポウゲの多年草で、旧暦の正月の頃に咲くので元日草(ガンジツソウ)とも福寿草(ふくじゅそう)呼ばれます。黄色の花弁は10~20枚、金属光沢があり、パラボラアンテナ型に開きます。花弁で反射された太陽の光は花の中央部に集束するため、内部温度は10度程高くなると云われます。虫の少ない冬ですが、ハナアブなどの越冬昆虫が、この暖を求めて集まって来るのだそうです。花の中央には黄緑色の 球形をした「めしべ」があり、その周囲には多数の「おしべ」があります。

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点灯直後

 福寿草の花は、明るくなると開き、暗くなると閉じます。上の写真は早朝、雨戸を閉めたままの部屋の中で、明かりを灯した直後に撮影したものですが、全ての花が凋んでいます。部屋の温度を20度ぐらいに暖めながら2時間もしますと、下の写真のように見事に開花します。右列の写真は、鉢の左端にある花が開いて行く様子を、時間を追って撮影したものですが、点灯後15分で開きはじめ1時間もすればほぼ完全に開きます。律儀にも毎日この開閉を繰り返します。

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点灯2時間後

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冬の温かい陽射しを浴びて微笑む福寿草

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 福寿草の花は、朝晩だけでなく日中でも明暗や寒暖の変化に敏感に反応して開閉します。開いている花を暗く寒い所へ持っていきますと直ぐに閉じ始め、再び明るく暖かい場所へ戻しますと開きます。朝、部屋の明かりをつけますと、ぱっと目覚めて花を開き始めます。陽が高くなり部屋の温度が上がって来ますと、元気いっぱい最大限に開きます。福寿草(ふくじゅそう)部屋が暑くなり過ぎた場合には、涼しい廊下へ移してあげますと、ほっとしたように少し凋みます。また風の無い晴れた日には戸外へ出してやりますと、気持ち良さそうに日光浴を楽しんでいます。その従順さ、健気さが何とも愛らしく、電気を消して寝る時には、「おやすみ」と言葉をかけてやりたくなります。とても植物とは思えない、さながら動物のペットのようで、家にいる時はいつも側に置いておきたい、というような気持ちになります。

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 福寿草の花達を真横から眺めますと、たくさんの人が並んで写真を撮っているようです。中央に寄り添うようにして立つ二人は、若い夫婦でしょうか、真ん中に赤ちゃんを抱いています。二人を取り囲むのは家族でしょうか、友人も混じっているのでしょうか、皆で二人を祝福しているようです。幸せそうな家族写真、何時までも続いて欲しい幸福、まさに福寿の世界です。

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「福寿」とは「幸福で長命なこと」を意味しますが、そこで想い浮かぶのが徐福伝説です。徐福は、中国は秦の時代(紀元前200年頃)、始皇帝の命により「不老不死」の薬を求めて日本へ渡来したと云われる人物です。中国で最も古い歴史書である司馬遷の「史記」によれば、徐福は始皇帝に「東方の三神山(蓬莱、方丈、えい州)に不老不死の霊薬がある」と具申します。それを聞いた始皇帝はたいそう喜び、徐福へ東方への出発を命じます。一度目は失敗しますが、二度目には童男童女(若い男女)や百工(多くの技術者)などを含む3,000人の大集団と五穀の種を持って出発し、済州島を経て日本へ渡来します。しかし不老不死の薬は見つからず、そのまま日本に住み着き、中国へは帰らなかったそうです。

 徐福は長い間伝説上の人物とされていましたが、1982年6月「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業中に、江蘇(こうそ)省に「徐阜(じょふ)村」という地名が発見されました。この村はかつては「徐福村」と呼ばれていたそうで、実際その村を訪ねてみますと徐福にまつわる伝承や遺跡の残っていることが判明し、実在した人物ではないかとも云われています。ところが現在その徐阜村には「徐」姓を名乗る人が一人も居ないそうです。その理由として古老は次のように説明しています。「徐福は日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言った。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復し「徐」姓は断絶の憂き目を見るだろう。我々が発った後には、「徐」姓は名乗ってはならない。」それ以来、「徐」姓を名乗る者は途絶えたそうです。 

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 日本には、佐賀市、熊野市、新宮市、いちき串木野市(鹿児島県)、富士吉田市、八丈島、延岡市など、徐福が上陸したという伝説の残る地方が20以上あります。対馬海流や黒潮の流れる海岸沿いの地方に点在しますので、漂着伝承とも呼ばれます。そのうち三重県の熊野市には波田須町という地名があり、江戸時代までには秦住(あるいは秦栖)と表記したそうです。言い伝えでは、この地に住むことを決めた徐福は、「徐」姓を使わず、「秦」から波田、羽田、波多、畑などの姓を名乗ったそうで、それが地名の由来になっているそうです。中国と同じような話ですね。

 

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 波田須町では、秦の始皇帝時代に使われていた大型半両銭が発見されましたが、他にも徐福にまつわるいろいろな痕跡が見つかっています。蓬莱山とも呼ばれる丸山には、熊野灘を遠望する高台に徐福を祀る徐福の宮があり、墓もあります。徐福らは、焼き物、土木、農耕、捕鯨、医薬などの技術を伝えましたが、その頃日本は縄文時代から弥生時代への転換期にあり、稲作を伝えたの大型半両銭も徐福らであったとも云われます。同じような伝承が、日本全国20か所以上に残っているのですが、果たして本当はどこに上陸したのか、興味深いものがあります。佐賀市はその中でも有力候補の一つですが、市内に柏槙(ビャクシン)という大木を神木とする新北(にきた)神社があります。徐福が種を植えたと伝えられ、推定樹齢2,200年と云われます。ビャクシンはヒノキ科の常緑高木で、大木になるものから盆栽用に育てられるものまで、いろいろな種類があります。鉛筆用材としても使われ、私達にとって懐かしい鉛筆のほのかな芳香は、ビャクシンの香りだそうです。ビャクシンと良く似た木に、槙柏(シンパク)があります。両者はしばしば混同され紛らわしいのですが、ビャクシンの漢字「柏槙」を上下逆さまにするとシンパク(槙柏)となり、両者は同一のものと考えて良いとのことです。妻の実家には樹高15mを越えるような大きなシンパクの木があります。明治時代に植えられたとのことですので、樹齢は少なくとも100年以上、150年ぐらい経っているかも知れません。庭の真ん中にどっしりと屹立し、夏には涼しい木陰を提供し、年中小鳥達がやって来ては忙しそうに巣作りに励んでいます。

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実家のシンパクの木

 徐福らは、始皇帝の命により不老不死の薬を探しに日本へ来たことになっていますが、ほんとうは始皇帝の圧制を見兼ねた徐福が多数の仲間を率いて秦を抜け出し、理想の国をめざして日本へ向かったとも云われます。まさに幸せの国を求めての旅立ちだったのでしょう。

さて病院の話題です。東医療センター外科の久留宮隆医師には、桑名市総合医療センターニュースの前号で、国際医療研修に関する特集記事を書いていただきました。実は先生は、長年「国境なき医師団」の一員として世界各地の紛争地や災害地における医療支援に尽力して来られています。訪れた国は、アフリカや中東あるいはアジアの国々を中心として11年間で延べ10か国になるそうで、昨年はシリアにも行かれています。私達の想像を絶する困難な局面や危険な状況に遭遇されたことも、少なからずあったことと推察致します。先生にとって嬉しかったことは、言葉は分からないながらも、患者さん達のちょっとした仕草や表情の中に深い感謝や親愛の情が感じられ、医師と患者の関係を越えた人間同士の密接な交流ができたことだそうです。まさに医療の原点です。

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  今回イスラム国の犠牲となった後藤健二さんも、戦争ジャーナリストとして戦禍の中で生きる子供や女性達を撮り続けました。何もかもが破壊された「がれき」の中で、泣き叫ぶ子供や震えおののく女性達の姿を見ると心痛くなります。有史以来絶えることなく繰り返されて来た戦争の悲惨さを、改めて深く思い知らされます。しかし難民キャンプで悲嘆にくれる大人達にまじって、明るく微笑む子供達の表情を見ると、ほっと救われるものもあります。後藤さんは、戦争という極限状況の中で懸命に生きる子供や女性達のありのままの姿を撮りたいと、どこかの講演で語っていました。私達戦後生まれの日本人は、今まで戦争を経験せずに済んで来ました。また私自身、大災害で被害を受けることもありませんでした。これはほんとうに恵まれたことだと思っています。と同時に、運悪く戦争や災害に巻き込まれた人達のために少しでも力になりたいと頑張っている久留宮先生や後藤さん達ジャーナリストの皆さんの勇気と情熱に深い敬意を表します。後藤さんを知る人は、ほんとうに心やさしい人だったと言います。久留宮先生も実にやさしい外科医です。このようなやさしい人達がいることに私達も勇気づけられます。明日からも頑張ろうと・・・。
 久留宮先生は、ご自身の海外での医療支援活動を記した「国境なき医師が行く」(岩波ジュニア新書)という本を出版されています。是非ご一読下さい。

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福寿草の花びらが散り始めますと、ひょろひょろと伸びた花茎から葉が出てきます

(平成27年2月)

桑名市総合医療センター理事長  竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)

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