5月 花海棠(はなかいどう)
―クラムボンはかぷかぷわらったよ―
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今年は3月下旬から4月初めにかけて急に暖かくなったため、各地で桜がいっせいに開花し、九華公園をはじめ至る所でほぼ同時に満開となりました。このまま春爛漫になるのかなと期待していましたら、その後予想外に曇や雨の肌寒い日が続き、がっかりしました。喜び勇んで開いた桜も、連日の曇り空にどうしたものか、何か張りを失くしたように茫然と佇み、寂しそうでした。さらに追い打ちをかけるように中旬になってからの寒の戻り、関東地方では満開の桜に白い雪が降り積もったそうです。そして季節外れの寒風の吹く中、満たされぬ想いを残しながら、桜吹雪となってハラハラと散って行きました。これが私にとっての今年の桜でしたが、皆様にとっては如何でしたでしょうか。
そんな中、秘かに蕾を膨らませて出番を待っていたのが花海棠(はなかいどう)です。花海棠は単に海棠とも呼ばれ、バラ科リンゴ属の植物で江戸時代に中国から垂糸(すいし)海棠とも呼ばれます渡来したと云われます。
海棠の棠とは梨のことで、海外から渡来した梨という意味だそうです。中国では玄宗皇帝が楊貴妃の美しさを海棠に例えたように、「ぼたん」と並んで最も美しい花として大切にされています。花弁は半開状の釣鐘様となり、長めの花茎から垂れ下がるようにたくさんの花を付けますので、垂糸(すいし)海棠とも呼ばれます。
花海棠の花弁は10枚前後、「おしべ」は20本以上あります。深紅色の「めしべ」は1本から4本ありますが、無いものもあるそうです。右の写真の花には2本見えます。 |
日本の秋を彩る秋海棠(しゅうかいどう)と云う花がありますが、これは秋に咲く海棠のように美しい花ということでこの名が付いたと云われています。花の形は違いますが、愛嬌のある面白い花ですね。 |
「海棠」の「棠」という難しい漢字、以前より何となく気になっていました。意味は梨であると先に記しましたが、どのように読むのでしょうか。漢字辞典によりますと、音読みは「トウ」「ドウ」、訓読みは「やまなし」となっています。この字一字で「やまなし」と読むのですね。全く知りませんでした。
「やまなし」はバラ科ナシ属の高木で西日本から四国、九州に広く分布します。高さは10~15mにも達し、花海棠と同じように桜の散った後、小さな白い花を咲かせます。秋には小さな実を付けますが、私達が普段食べる「長十郎」など梨の栽培種の原種と云われています。
奈良県宇陀市郊外の山中に、平安時代(850年)に創建された佛隆寺という古刹があります。「やまなし」の白い清楚な花樹齢900年と伝えられる桜の巨樹(千年桜)で有名なお寺ですが、この境内にこれも樹齢450年と云われる「やまなし」の大きな木があります。久し振りに晴れた4月18日の土曜日、今が見頃では・・・と思いカメラを抱えて訪ねました。千年桜はすっかり葉桜になっていましたが、「やまなし」は今まさに満開で、大きな木に白い清楚な花がたくさん咲いていました。ほんとうに久し振りの快晴で、木漏れ日を浴びながら咲く姿は如何にも涼しげでした。住職の奥様のお話によりますと、秋には小さな実をつけ、食べると甘くて美味しいそうです。
この「やまなし」を題材にした宮沢賢治の有名な童話があります。小学校の教科書に載っていますので、覚えている方も多いと思います。美しい谷川の底に住む蟹の兄弟と父親の物語で、5月と12月の二場面構成になっています。そのあらすじを、原文(太字)を混ぜながら紹介します。
やまなし
宮沢賢治
目次
小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈(げんとう)です。
一、五月
二疋(ひき)の蟹(かに)の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳(は)ねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼(はがね)のように見えます。そのなめらかな
天井(てんじょう)を、つぶつぶ暗い泡(あわ)が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒(つぶ)泡を吐(は)きました。それはゆれながら水銀のように光って斜(なな)めに上の方へのぼって行きました。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚(あし)の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云(い)いました。
『わからない。』
魚がまたツウと戻(もど)って下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢(ゆめ)のように水の中に降って来ました。
波から来る光の網(あみ)が、底の白い磐(いわ)の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影(かげ)の棒が、斜めに水の中に並(なら)んで立ちました。
魚がこんどはそこら中の黄金(きん)の光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又(また)上流(かみ)の方へのぼりました。
この後、水色の美しい鳥「かわせみ」が突然水中へ飛び込んで来ます。
その時です。俄か(にわか)に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾(てっぽうだま)のようなものが、いきなり飛込(とびこ)んで来ました。兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖(とが)っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金(きん)の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
蟹の兄弟はびっくりして怖くなりましたが、そこへ父親の蟹がやって来て、飛び込んで来たものは「かわせみ」であることを教えます。
二、十二月
12月になり蟹の兄弟は大きくなりました。次のように形容される月の美しい夜です。
そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶(びん)の月光がいっぱいに透(すき)とおり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。
蟹の兄弟は月があまりにも明るくきれいなものですから、眠らずにお互い吐く泡の大きさを競争して遊んでいますと、「どぶん」と大きな音がします。兄弟は「かわせみか?」と警戒しますが、父親は次のように話します。
『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂(にお)いだな』
なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。その横あるきと、底の黒い三つの影法師(かげぼうし)が、合せて六つ踊(おど)るようにして、やまなしの円い影を追いました。
間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔(ほのお)をあげ、やまなしは横になって木の枝(えだ)にひっかかってとまり、その上には月光の虹(にじ)がもかもか集まりました。
童話の前半は、初夏の明るい谷川の光景です。泳ぎ回る魚、ぷくぷく浮かぶ泡、水中に射し込む陽の光の輝き、まっしぐらに飛び込んで来て魚を捉まえる「かわせみ」の姿などが、生き生きと鮮やかに描かれています。一方の後半は、晩秋の静かな月夜における谷川の幽玄な世界です。いずれも蟹の子供の目を通して川底から眺めるように描かれています。前半は動、後半は静の世界です。賢治はこの童話で何を表現したかったのでしょうか。その解釈は非常に難しく、小学校の先生は、子供たちにどう教えたら良いか困るのだそうです。例えば冒頭に登場する「クラムボン」という言葉、一体何を意味するのでしょうか。英語の蟹(crab)に由来する言葉、アメンボ、泡、光、妹、アイヌ語のコロボックル(小人)など、いろいろな説があります。国語の教科書では以前は「水中の小さな生き物」と注釈されていたそうですが、最近では「作者の造語。意味は不明」となっているそうです。果たして本当はどうなのでしょうか。いろいろな解釈を読んでいますと、一つ、興味深い説に出会いました。賢治にとって数少ない生前発表作であるこの童話は、1923年4月8日当時の岩手毎日新聞に掲載されました。ところがその半年前の1922年11月27日、賢治は最も良き理解者であり最愛の妹トシを病気で失っています。哀しみの底に沈んでいる時、この童話が書かれているのです。そこで賢治は、自分とトシを蟹の兄妹に見立て、亡き妹を偲んで書いたという説です。岩手地方で古くから語り継がれて来た「やまなしとり」という民話があります。同じような話が日本全国にも伝わっていて、木下順二が「なら梨とり」と題して再話しました。病気の母親に食べさせるために「やまなし」の実を取りに行く三兄弟の話ですが、上の二人は山の婆さま(山んば)の云うこと聞かず沼の主に食べられますが、云う通りした末っ子が沼の主を退治して兄二人を救い出し、やまなしの実を母親に食べさせて病気を治したという話です。恐らく賢治兄妹は子供の頃、この話を何度となく聞いていたのでしょう。そして二人で沼の主のことを「クランボン」と名付ていたのではないかというのです。何となく分かるような気もします。
「クラムボンはかぷかぷわらったよ」の「かぷかぷ」というのも不思議な言葉です。どういう意味でしょうか。幼児語のような響きもありますが、賢治の造語かも知れません。賢治はオノマトぺ(フランス語で擬声語、擬態語の意味)の天才でした。ここに引用した文章の中にも、「月光の虹(にじ)がもかもか集まりました。」など面白い言葉があります。
それにしても賢治は、どのような気持ちで、あの膨大な数の童話や詩を書き続けたのでしょうか。世の中に認められず、唯一の理解者であった妹も失い、事業にも失敗を重ねる中で、何を夢見ながら創作を続けたのでしょうか。私は以前に宮沢賢治と天才画家ゴッホとの類似性について書いたことがあります。その一つにゴッホにも最良の理解者、弟テオがいました。賢治にとってもゴッホにとっても、彼らはともにかけがえのない心の支えでした。ただ一つ異なるのは、賢治は妹に先立たれたのに対し、ゴッホは自分が先に死ぬのです。最愛の肉親を見送った賢治と見送られたゴッホ。だからと云ってゴッホの方が幸せだと云う訳ではありませんが、妹を失った賢治の心情は如何なるものであったことでしょう。その深い哀しみを「けふのうちに とほくへいつてしまふ わたくしのいもうとよ」で始まる「永訣の朝」という詩に切々と詠っています。童話「やまなし」の後半12月には、蟹の兄妹がお互い吐く泡の大きさを自慢し合い、たわいもなく遊ぶ様子が比較的長く描かれています。仮にこれがトシと無邪気に遊んだ幼い頃を追憶して書かれたものとすれば、けなげに遊ぶ蟹の兄妹も、より愛(いと)おしい存在になって来ます。ちなみに賢治もゴッホも37才で亡くなっています
さて病院の話題です。今回は、東医療センターで医療通訳として働くカルデナス・カルラさんを紹介します。三重県、特に北勢地方には外国の方がたくさん住んでいますが、問題となるのは病気になった時です。病院へ行っても言葉が通じず、適切な治療を受けられないことが少なくないからです。カルラさんはペルー人で19年前に来日しました。母国語はスペイン語で、ポルトガル語、英語、日本語にも堪能です。当然のことながら来日当初は日本語が分からず苦労したそうで、特に病院で困ったことが医療通訳を志した理由だそうです。平成26年4月、三重県からの紹介により当センターで仕事を始めていただきました。業務は外国人が外来受診した際の通訳や問診票記入の指導、検査の説明などですが、依頼件数は、当初月50件ほどでしたが、最近では100件を超えるようになり連日引っ張りだこです。ペルーやブラジル人の通訳をすることが多く、小児科での業務が多いとのことです。カルラさんの仕事の大切さは、最近病院職員にも広く認識されるようになりましたが、と同時に対外的にも高く評価され、三重県が主催する平成26年度MIE職員力アワード発表会でグランプリを受賞して全国大会へも出場しています。昨年度は他の病院と掛け持ちでしたが、今年度からは当センターの専任職員として仕事をして貰っています。
以下は、カルラさんが自ら日本語で記した文章です。日本語もたいへん上手です。
私は、ペルーの大学で心理学の勉強をしてきました。それを生かして、通訳することで外国人の「心のサポーター」になりたいと考えています。病気になってまでも言葉の壁が立ちはだかる外国人にとって、病院で安心した顔が見られることは私にとっても大変うれしい事です。
日本語を話せない患者様が今までに経験した辛い思いを、繰り返させたくないという思いが、医療通訳者の道を選んだもう一つの理由です。通訳者の方を介して得る情報は通訳する人の技量によって違う可能性があったり、また間違った理解であったりします。そうすれば、服薬時間や量を間違えていたりして、命に関わる場合も出てきます。このような、不安なことを二度と繰り返させたくないという思いが強く、日本語に不安のある外国人の方が安心して病院に掛かれるように力になりたいと考えます。
カルラさんの医療通訳にかける熱い気持ちが伝わって来ます。どうぞ今後ともよろしくご支援のほどをお願い申し上げます。
(文中の宮沢賢治の童話「やまなし」は青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用しました。)
(平成27年5月)
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)