名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

6月 昼咲月見草

-月見草、夜、昼、何時咲いてもサインは十字-

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                                                          水辺に咲く昼咲月見草

 例年5月もゴールデンウィークを過ぎますと、すっかり初夏になります。日中は暑いほどに陽が照り返りますが、朝夕は夏の高原のように爽やかです。冬の暖房具を片付け、衣替えをします。衣装ケースから取り出したばかりの半袖のシャツには、しっかりアイロンがかっていて、初めて着る服のようで気分がしゃんとします。冬の間長袖に隠されていた両腕は、輝く太陽の下に解き放たれ、去年の日焼けの残るその肌を、自分でも久し振りに目にしたような気がします。夏の陽射しが両腕の肌をチクチク刺しますが、爽やかな初夏の風がやさしく冷やしてくれます。その快さに夏の到来を実感します。
 ところが今年はどうだったでしょう。大型連休の後も、朝晩は寒いほどに涼しく、冬の布団をなかなか離すことができませんでした。暖房具を片付けるどころではありません。いつまでも初夏にならない、こんなことは最近なかったように思います。

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ところが5月も中旬になって一変しました。全国的に暑くなり、夏日や猛暑日を記録する都市が続出します。朝夕も気温が上がり、ようやくいつもの初夏が来たという感じになりました。すると街のあちこちに小さな桃色の花が咲き出しました。道路の片隅や公園、空き地などに、草丈50cmほどの鮮やかな桃色の花が、群れをなして咲いています。昼咲月見草(ヒルサキツキミソウ)です。花の色より桃色昼咲月見草とも呼ばれます。アカバナ科マツヨイグサ属の多年生植物で、元々観賞用として北米から輸入されたものですが、今では野生化もして初夏の街中を彩ります。花の色は、鮮やかながら上品で控え目なピンクです。初夏の光をやわらかく受け止めます。歩道の片隅にチャーミングな桃色の花が群れて咲いているのを見つけ、思わず足を止めたことのある方も多いと思います。

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待宵草(マツヨイグサ)、雌待宵草(メマツヨイグサ)、夕化粧(ユウゲショウ)

 アカバナ科マツヨイグサ属の仲間には、右表のようなものがありますが、いずれも北米あるいは南米から渡来した帰化種です。

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            月見草

 
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 大きな十字の「めしべ」を持つ昼咲月見草

 本来月見草は白い花ですが、待宵草や大待宵草(オオマツヨイグサ)を月見草と呼ぶこともあります。

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そのため、月見草を黄色い花と思ってみえる方も多いようです(私もそうでした)。ほとんどの花は夜開いて朝萎みますが、昼咲月見草はその名の通り昼間も堂々と開いています。マツヨイグサ属の花に共通する特徴は、「めしべ」の先端が十字に開いていることです。昼咲き、夜咲きに関係なく、十文字になっています。まさかアメリカ大陸からキリスト教の伝道活動のために渡来した訳でもないでしょうに、皆十字架を顔の真ん中に据えています。

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            松宵草

 待宵草の仲間のうち、どれか咲いているものはないかと街中や郊外を自転車で走り回って探しました。そして松宵草と小待宵草(コマツヨイグサ)を見つけましたので、写真を撮って来ました。右の写真は、松宵草です。津市内の車の往来の激しい大きな道路の歩道の脇に生えていたものです。陽の昇り始めたばかりの早朝に撮影したものですが、高さ780cmほどの茎に大きな黄色い花が咲いています。その下には、前日までに咲いた花が萎んで朱色になっています。一つの茎にはたくさんのつぼみが付いていますが、一日に一つしか咲かないそうです。ある夜一つの花が開いては翌朝萎み、その夜別の花が開いてはまた萎むということを繰り返します。花は鮮やかな黄色で、花弁は4枚、中央に十字型の「めしべ」があります。萎んで朱色になった花を見ますと、黄色い十字の「めしべ」が際立ちます。

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 一方、下の写真は小待宵草です。待宵草より少し郊外の小さな道路脇などに生えています。茎が地面を這うように伸びていくのが特徴で、10cm前後の高さに直立した茎の先に、小さな黄色い花を咲かせます。あるいは茎が地面を這わずに直立して30cm前後となって花を咲かせるものもあります。小待宵草の花でも「めしべ」の十字が特徴的です。開花時には黄色い花弁や「おしべ」と重なって識別困難ですが、萎れて花びらが朱色になりますと明瞭になります。

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           小待宵草

 待宵草も小待宵草も道路脇によく見掛けますが、幹線道路や街中を走る大きな道路などに育つのが待宵草、それより郊外の、ある程度人や車の往来のある比較的小さな道路に生えるのが小待宵草です。しかし人の足を踏み入れることの少ない田圃の畔道や人里離れた山道では、ほとんど見かけません。すぐ近くに空気も水も土もきれいな道があるのに、なぜ排気ガスに溢れた乾いた道端を好むのでしょうか。待宵草の仲間は、存外、人懐っこくて人恋しいのかも知れません。

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田圃の用水路の脇に咲く昼咲月見草サラサラと気持ち良さそうです

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初夏の明るい陽射しを受けて「めしべ」や「おしべ」の影がくっきり花弁に映ります。「めしべ」の十字や「おしべ」に複雑にからまった葯が不思議なシルエットを描き、まるで影絵芝居を見ているようです

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     せせらぎの音色をバックに、ママさんコーラスの皆さんが声を張り上げて歌います

 月見草と云えば、太宰治の「富岳百景」の中の「富士には月見草がよく似合う」という一節が有名です。そのくだりを引用します。

 

 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
 
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、
 私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あいたいじ)し、みぢんもゆるがず、
 なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、
 けなげにすつくと立つてゐた あの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。

(青空文庫より引用)

この中で、月見草は黄金色の花となっています。待宵草か大待宵草のことではないかと考えられていますが、ここから月見草は黄色い花になったとも云われます。

長嶋茂雄はひまわり、私は月見草

プロ野球の往年の名選手であり名監督であった野村克也氏の言葉です。

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テスト生として南海ホークスへ入団し、努力を積み重ねて、打者として8年連続パリ―グ本塁打王、戦後初の三冠王などの数々の大記録を残し、リードの上手な強肩捕手としても活躍しました。監督になってからも、ヤクルトスワローズを日本一にするなど、ID野球を駆使して数々の業績を挙げました。私は子供の頃熱烈な長嶋ファンでしたが、大人になるにつれ野村氏に惹かれるようになりました。野村氏の言動についてはあれこれ意見もありますが、氏のコツコツ歩んで来られた野球道一筋の「いぶし銀」のような人生に深く脱帽します。

 

宵待草
                      作詞 竹久夢二、作曲 多忠亮(おおのただすけ)

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな

大正時代、美人画で一世を風靡した画家であり詩人であった竹久夢二(1884-1934年)の作詞による有名な曲です。なぜ待宵草が宵待草にひっくり返ったのでしょうか。語感が良いからでしょうか。一説によりますと、夢二の勘違いであり、気づいた夢二は慌てて訂正しようとしますが、間に合わなかったそうです。夢二は日本画の技法を使って数々の美人画を描きますが、いずれの作品にも独特の哀調があり、大正ロマンの代表と称されて現在でも人気があります。夢二の創作は多方面にわたり、児童雑誌の挿絵や詩、童話などの創作、さらに書籍の装幀、ポスター、日用雑貨などのデザインにも手がけ、本邦におけるグラフィック・デザイナーの草分けの1人でもあります。しかし晩年は不遇で、結核を患って長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所へ入院しますが、治療の甲斐なく49歳で寂しく世を去ります。

     富士見高原療養所(サナトリウム)

 富士見高原療養所は、1926年結核療養所(サナトリウム)として設立され、竹久夢二のほか、堀辰雄、横溝正史、岸田衿子などの著名人が療養しています。また数々の映画の舞台にもなっており、古くは「月よりの使者」「愛染かつら」、最近では堀辰雄原作の「風立ちぬ」などの撮影が行われました。現在は厚生連の富士見高原病院として、諏訪地方の地域医療の充実に貢献しています。私は先代の院長に懇意にしていただいたこともあり、また私の後輩医師がこの病院へ勤務していることもあって、何度か訪ねています。八ヶ岳の峰々が美しく聳え立つ、静かで落ち着いた街中の病院で、療養所の一部が資料館として残されています。

 さて病院の話題です。今回は西医療センターの栄養サポートチーム(NST)をご紹介します。NSTとはNutrition Support Teamの略で、患者さんの栄養状態を正しく評価して改善を目指す医療チームのことです。患者さんの病気の状態により食欲が低下して食事量が減少しますと、体に必要な栄養分が不足して病気の回復が遅れます。

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それを予防するために「どのような栄養がどれだけ必要なのか、どのような食事が良いのか、点滴が必要なのか、それとも胃や腸にチューブを入れて栄養剤を注入する(経管栄養)が良いのか」などの問題点を、医師だけではなく歯科医師、管理栄養士、看護師、薬剤師、臨床検査技師、言語聴覚士、歯科衛生士など、多職種の人達が一緒に検討し、患者さんの栄養状態の改善を図ります。
 体に必要な様々な栄養素は、食物を噛む、飲み込む、消化・吸収する、などの過程を経て補われ、必要のないものは排泄されます。患者さんの中には、飲み込む力の低下した方もいます。NSTメンバーには歯科衛生士や言語聴覚士もいますので、食物の口の中での砕け方や飲み込む際の通過の状態などを詳細に観察して問題点を抽出し、それに合わせて食べる訓練を行います。さらに食事の軟らかさなどを工夫することにより、できる限り患者さんが自ら食べることによって栄養を摂取できるように支援しています。それでも食事で十分な栄養を摂れない場合には、患者さんに少量の食事を摂って貰って「食べることの満足感」を味わっていただき、足りない栄養分を点滴又は経管栄養により補います。現在では、消化管(主に胃や腸)に問題がなければ、点滴よりも経管栄養が基本になっています。点滴でも栄養を補充することはできますが、体に必要な栄養素をすべて補うことはできません。
 胃や腸などの消化管は、食物を消化、吸収する臓器、すなわち消化器ですが、実は体の80%の免疫機能が集まった最大の免疫臓器でもあるのです。残念なことにその免疫臓器も、消化器として使われなくては機能しません。消化管は「消化器として使われない」ことにより弱くなり、その結果、免疫機能も低下して病気の回復を遅らせるのです。病気により消化管が使えない場合を除き、消化管を利用した栄養補給を早くから始めることにより、患者さんの状態の回復を促進し、入院期間を短縮することができます。当院では「消化管が使えるなら消化管を使え!消化管は人体の最大の免疫臓器である」ということを常に念頭に置き、患者さんに最も必要な栄養分を最大限摂取していただけるように努めています。
 西医療センターでは200011月よりNSTを立ち上げ、2007年には日本静脈経腸栄養学会認定教育施設となり、NST専門療法士育成の教育施設となりました。当院では現在、NST専門療法士の資格を取得したスタッフが7名在籍しています。

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主な活動は、全病棟のNST回診を週1回、症例検討会や会議を月1回行っています。教育面においては、日本静脈経腸栄養学会や三重NST研究会、北勢・地域連携栄養カンファレンス等へ参加し、研究発表などを積極的に行っています。また教育施設として、NST専門療法士の取得に必要なNST栄養管理研修を開催し、院内外を問わず受講希望者を受け入れています。さらに研修を終了したスタッフ数人を全病棟に配置し、栄養管理の必要な患者さんが入院された場合には、常にコンサルトできる体制をとっています。
 ようやく来年には新病院が開院して3センターが1つに統合され、現在分散しているNST活動も集約されます。新病院では、NSTスタッフ全員の知識を集約し、患者さんの栄養状態の回復の促進に向けて、さらなるお手伝いと、思いやりのある最良の栄養管理を遂行できるように頑張ります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

平成29年6月

桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛   (文、写真)

竹田 恭子 (イラスト )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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