名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

4月 れんぎょう(連翹)―桜の季節の名脇役―

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れんぎょう ※画像クリックで大きな画像が見られます。

 今年の桜は開花と同時に風の無い晴天の日が続き、例年より長く楽しめましたが、皆様は如何でしたでしょうか。桑名には九華公園など桜の名所がたくさんあり、きっとお楽しみになられたことと思います。

 さて私も桑名市総合医療センターでお世話になるようになりまして半年経ちました。初めは右も左も分からず戸惑うばかりでしたが、職員の皆様はじめ桑名市や市議会、医師会の方々などの真摯なご指導とご協力、そして患者さんやご家族をはじめとする市民の皆様からの暖かいご声援のおかげで、何とか今まで職務を果たして来ることができました。改めて深く御礼申し上げます。この半年間いろいろなことがありました。新病院の建設に関しましては、二度の入札中止により多くの方々に深い落胆を与え、多大なる心配をおかけ致しました。昨今の建設業界の事情により致し方ないとは云え、私どもとしましても残念でなりません。現在、新病院準備室を中心として一日も早く施工会社が決定しますよう鋭意準備致しておりますので、今しばらくお待ち下さいますようお願い申し上げます。またこの4月からは東、西、南医療センターの職員の給与制度を統一致しましたが、これは三センターを一法人として統合するための第一歩であり、よろしくご理解いただきますようお願い申し上げます。いろいろ問題点も残っておりますが、その解決のためにも、今後さらなる待遇改善や手当の充実などに努めて行く所存でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 これから数年間、新病院が完成し組織が確立されるまでには、幾多の困難に直面したり紆余曲折を経ることもあろうかと推測されます。そんな時、病院の執行部はどのように考え、どのような方針で臨もうとしているのか、職員の皆様に正しく伝えることは非常に大切であります。その目的のためもあって、今月より本センターのホーム・ページと月刊ニュースに、私のブログ「理事長の部屋」の連載を開始することと致しました。これは、私が三重大学病院長時代に毎月病院のホーム・ページへ連載しておりました「病院長の部屋」と趣向を同じにした随想です。季節の花を取り上げ、その植物学的な特徴を概説し、それにまつわる文学や美術、音楽、映画などの話題を思いつくままに書き綴ります。最後に私たちの病院や医療界における最近の話題について言及し、そこに私の考えを織り込みたいと考えています。ただし余り堅苦しいものではなく、写真やイラストをふんだんに取り入れた楽しく読みやすい随想になるように努めます。職員の皆様はもとより、患者さんやご家族の方々、市民の皆様にもご一読いただき、少しでも心和んでいただければと願っております。

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桜とれんぎょう

今月の花は「れんぎょう(連翹)」です。4月、桜の咲く頃になると鮮やかな黄色の花をたくさん咲かせます。我が家にも「れんぎょう」の木が1本ありますが、雪柳に少し遅れて満開になります。雪柳の白とのコントラストも見事ですね。それにしても鮮やかな黄色です。しかしその黄色はキラキラ金色に輝くと云った感じではなく、どちらか云えば抑え気味の黄色です。明るい春の光を歓喜するのではなく、喜びを押し隠すように控え目に咲いています。 

 「れんぎょう」も雪柳も黄色や白い花を量感たっぷりに咲かせる存在感のある木ですが、それでも満開の桜の下では脇役です。桜には圧倒されてしまいます。それは桜に比べ背が低いからでしょうか。あるいは数が少ないからでしょうか。里山でも街の公園でも小学校の校庭でも、桜が満開となり一面うす桃色の朧げな世界となる頃、黄や白の小さなアクセントとして静かに点在します。まさに日本の春を彩る名脇役なのです。

れんぎょう写真

軸の構造

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 「れんぎょう」はモクセイ科に属しますが、植物学的な特徴が二つあります。一つは自家受粉を防ぐために雄花(おばな)と雌花(めばな)の2種類の花が存在することです。

 「めしべ」の先端部分(柱頭)と「おしべ」の先端部分(葯)が同じ高さにありますと、自分のおしべの花粉を自分の柱頭で受粉する自家受粉が起こりやすくなります。それを避けるために「めしべ」の長さを変えているのです。

 「めしべ」が短く柱頭が葯よりも低位置にあるものを「短柱頭花」(別名:雄花)、逆に「めしべ」が長くて柱頭が葯よりも高い位置にあるものを「長柱頭花」(別名:雌花)と呼ばれます。

 一つの株に桜草では両型が混在しますが(雌雄同株)、「れんぎょう」ではどちらか一型しか存在しません(雌雄異株)。

 もう一つの特徴は「れんぎょう」は空木(うつぎ)の仲間なのです。空木とは軸や枝が中空になる植物の総称で、ユキノシタ科やスイカズラ科などの様々な種類の木が含まれますが、「れんぎょう」もその仲間なのです。そのため連翹空木と呼ばれることもあります。

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 花が満開になるにつれて茎の先端から黄緑色の若葉が顔を出してきます。黄色と黄緑のコントラストも素晴らしいですね。

 話は変わりますが、4月2日は明治から大正、昭和にかけて彫刻家として、また詩人としても活躍した高村光太郎(1883-1956年)の命日です。毎年その日には偲ぶ会が開催されていますが、彼の好んだ「れんぎょう」にちなんで連翹忌と呼ばれています。高村光太郎と云えば詩集「智恵子抄」が有名で、若い頃に愛読された方も多いかと思います。私はあまり馴染みがなかったのですが、手許にその詩集があります。大学時代の友人が卒業して郷里に帰る際に残して行ったものです。長い間私の本棚の隅っこに置かれたままになっていましたが、40年経って初めて本を手に取りました。箱入りのなかなか立派な本です。表紙を開けますと一枚の古びたカードが挟まれていました。異性からの贈り物でしょうか。簡単な挨拶文が記されていますが、強い筆圧でたどたどしく書かれた字を眺めていますと、青春時代の切ない想いが伝わって来るようです。「東京に空が無い」の句で有名な詩を探しましたら、「あどけない話」というタイトルでした。

あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

 ここに登場する阿多々羅山は、福島県の磐梯山や猪苗代湖近くに在る安達太良山(あだたらやま)(標高1700 m)のことを指しますが、日本百名山にも選ばれている有名な山です。阿多々羅山という名は安達太良山の古名とも云われますが、言葉の音韻を良くするために「あだたらやま」の濁音「だ」を「あたたらやま」に変更した光太郎の創作であるとも云われています。この詩のタイトルは「あどけない話」となっていますが、光太郎はどのような意味で「あどけない」という言葉を使ったのでしょうか、興味深いものがあります。

 高村光太郎は、明治41年(1908年)に詩人の北原白秋や木下杢太郎、画家の石井柏亭らが立ち上げた「パンの会」(パンとはギリシャ神話に登場する享楽の神)に所属してロマン主義的な芸術活動を展開し、以後智恵子との出会いを介して自己の芸術道を追求していきます。

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明治時代の終わり、すなわち明治40年代は、文芸上の様々な新運動が立ち上がった時期でもありました。明治42年(1909年)には、作家小山内薫と歌舞伎俳優市川左團次により自由劇場が開設され、翌明治43年には永井荷風らが三田文学を創刊し、谷崎潤一郎らが第2次新思潮を立ち上げています。その後新思潮は芥川龍之介らに引き継がれていきます。武者小路実篤や志賀直哉らが雑誌「白樺」を創刊したのも同じ明治43年です。人間の生命を謳歌し、個人の尊厳を基軸とする理想主義、人道主義的な作品が掲載され、同人には、有島武郎、柳宋悦、長與善郎らの作家と、中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生らの画家が所属し、「白樺派」と呼ばれています。学習院の卒業生が中心となって結成された会ですので、どちらか云うと富裕層の人達の集まりということができます。白樺派の作家の小説や絵画は、中学校や高校の教科書でもよく取り上げられていますから、記憶に残している方も多いでしょう。私は中学時代に有島武郎の「一房の葡萄(ぶどう)」を読みました。横浜の山の手にある小学校を舞台にした物語で、小学生の主人公は出来心で友人(外国人)の絵具を盗んでしまいますが、それをやさしく諭(さと)してくれた担任の女の先生への淡い憧れと、快く罪を許してくれた友人への感謝の気持ちが、先生から貰った一房の葡萄に託して純真な子供の言葉で著わされています。童話のような作品ですが、当時私達にとって葡萄はまだまだ高級な果物でしたから、都会の子供は羨ましいなと思ったものでした。
 高校時代には「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「網走まで」「城崎にて」「暗夜行路」など志賀直哉の作品をよく読みました。「暗夜行路」は志賀文学では唯一とも云える長編小説ですが、複雑な家庭の人間関係を細かに記した私小説風の内容でしたが、読み出したら面白くて止められず「あっ」という間に読み終えたように記憶しています。小説の最後は、病気で倒れた主人公(謙作)を見舞いに来た妻(直子)の言葉で終わりますが、名文として知られています。

「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、何所までもこの人について行くのだ」というような事をしきりに思いつづけた。

 志賀直哉は文章が上手で、今でも彼の作品をお手本として小説の書き方を勉強する作家志望の若い人達も多いと云われます。

 一方、白樺派の画家達は、ロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの作品を紹介し、画壇に新しい息吹を吹き込みました。岸田劉生もその一人ですが、有名な「麗子像」は教科書に載っていましたから、多くの方が憶えてみえると思います。劉生は愛嬢「麗子」をモデルにした作品を多数描いていますが、初めて見た時には麗子の異様とも感じられる顔の表情に一瞬ドキッとしました。しかしよく見ていますと、徹底した写実を通して麗子の生き生きとした魂が浮かび上がって来るようで、描写力の凄さに驚かされます。

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新しき村

武者小路実篤らは大正7年(1918年)理想郷の建設をめざして宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を創設します。ここでは自分も他人も尊重し、みずから働くことにより自由で個性的な生活を楽しむことを目的としました。美術館や公会堂、アトリエ、茶室などの文化施設も建設して、芸術を尊重する白樺派の理想を実現しようとしたのです。新しき村は昭和14年(1939年)埼玉県入間郡毛呂山町に移設されましたが、現在もなお存続しているそうです。平成22年(2011年)現在、村内に居住する人は10世帯13名ほどですが、村外会員は約170名いるそうです。主に農業を営んで共同生活を行い、美術館などの文化施設も継続し、白樺派の思想を具現化しています。新しき村については高校時代に学びましたが、その後どうなったのか、今まで考えもしませんでした。現在もなお存続していることを知り驚きました。

 さて医療センターの話題です。白樺派の同人達は、自分達の理想郷を求めて新しき村を創設しました。今度は、私達、総合医療センター職員の番です。東、西、南の三センターの職員が一丸となって、桑名に新しい理想的な病院を創るのです。素晴らしいことではありませんか。確かに新病院の建設は遅れています。先の見えない現状にイライラし不安を感じている職員も少なくないでしょう。しかし5年も10年も遅れる訳ではありません。一日でも早く開院することができるように新病院準備室は頑張っています。今、私達のやらなければならないことは、新病院へ向けての準備をできるところから始めていくことです。この4月から周産期科が新設され、新しく着任された佐々木禎仁先生は勢力的に仕事を始めています。小児科も常勤医4名となり診療の幅が拡充されました。桑名における周産期や小児医療は、今後どんどん充実していくものと期待されます。一方、西医療センターでは、脳外科の先生達が新しく導入された血管造影装置を用いて脳血管障害に対する血管内治療を活発に行っています。循環器内科や消化器内科にも新しい先生方が加わり、先進的な医療に積極的に取り組んでいます。新病院ではER型の救急医療体制の確立をめざしていますが、それに興味を示す総合診療医や救急専門医が県内外にいます。今年、後期研修医は4人残りましたし、本センターの初期研修は学生に広く人気があります。このように若い医師は着々と集まっていますし、看護師や技術職員、事務職員でも同じことが云えます。皆、理想の新病院で働くことを夢見ています。若い人の集まる病院、その将来は明るいと確信しています。たとえ難関にぶつかっても、理想を失わず、あきらめることなく、冷静に着実に一歩一歩進んで行くこと、これが今一番大切なことだと思っています。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

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