5月:ミヤコグサ
5月:ミヤコグサ
― 黄色いお豆さんたちと、水辺で光と戯れる ―
今年の梅雨入りは例年になく遅く、東海地方で6月21日頃とのことでした(気象庁発表)。平年は6月6日頃ですので、2週間も遅いことになります。果たして過去はどうだったのでしょうか。そこでネットのウエザーニュース(https://weathernews.jp/)で東海地方における過去の梅雨入り、梅雨明けの時期を調べてみました。それによりますと、1951年から2024年までの74年間で、梅雨入りが6月20日より遅かったのは、8年しかありません(右表)。特に1967年から2017年までの51年間は一度もなく、今年は2017年より8年ぶりということになります。したがって今年の梅雨入りの遅いのは、きわめて稀ということになります。 |
さて今月の花はミヤコグサ(都草)です。牧野富太郎博士によれば、「昔この草が京都大仏の前、耳塚あたりに多かったので、この名が付いたのであろう」とのことです(牧野日本植物図鑑 北隆館)。新緑の美しくなる頃、野原や疎水沿いに鮮やかな黄色の小さい花が密集して咲き、非常に目立ちます。
マメ科の植物は3つの亜科に分類されますが、ミヤコグサはその中のマメ亜科に属します。ハギやエニシダなどマメ科の植物の多くは、蝶形花冠と呼ばれる独特の花の構造をしています。ミヤコグサの花も同じ構造をしていますが、(花粉の)送受粉の仕方が、他とは違った独特の方法で行われます。ここでは同じ初夏の頃、ミヤコグサに似た黄色の小さな花をたくさん咲かせるエニシダと比較しながら、ミヤコグサの花の特徴を述べてみたいと思います。
エニシダの蝶形花冠
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左上の写真は、竜骨弁の袋を切開したものです。本来ならば竜骨弁の先端部あたりに花粉が充満しているのですが、私の衰えた視力と動かなくなった指ではうまく切開できず、花粉はパラパラと下方へこぼれ落ちています。ここにミヤコグサの送粉の特徴があります。「おしべ」は竜骨弁の上端が開いていないため外へ出られませんので、産生された花粉は、竜骨弁の先端部にある花粉室に蓄えられ、開口部から少しずつ押し出されます。右上の写真は、花粉が開口部から押し出されている様子ですが、白っぽいソフトクリームか、バナナの実の先端のように見えます。この花粉が風か虫などにより運ばれ、送粉が行われます。
4)ミヤコグサの受粉
問題は受粉です。「めしべ」もずっと竜骨弁の袋の中に入っているのですから、どのようにして受粉するのでしょうか?ネットの「続・樹の散歩道」の作者廣野郁夫氏によれば、「いくつかの図鑑では、送粉が終わった後、「めしべ」の柱頭が伸びて竜骨弁の開口部から外へ突き出て受粉すると書かれている」そうです(ミヤコグサは花粉を“にゅるにゅる”出す!https://kinomemocho.com/sanpo_miyakogusa.html)。ただ、竜骨弁開口部より突き出た「めしべ」の柱頭の写真を見たことがありませんし、広野氏も私の浅い経験でも、そのような様子は見られませんでした。
一方、「めしべ」は竜骨弁の袋の中で自家受粉をするという説もあります。しかもかなり早い段階で自家受粉が行われるというのです。ここまで来て、「ああ、なるほど」と合点がつきました。右の写真をご覧ください。一つの茎に4個の花が咲いていますが、うち1個は既に果実が出来かかっています。全般的に見て、ミヤコグサでは、果実のできるのが異様に早いように思います。 まだ花盛りなのに、一方でどんどん結実しています。相当早くから自家受粉が行われるのならば、それも納得できます。 他家受粉か自家受粉、果たしてどちらがほんとうなのでしょうか。 |
左の写真は、水辺に咲くミヤコグサですが、黒い影になった水面を背景に黄色い花が際立っています。舞台に立った歌姫たちが楽しそうに歌っているようです。 |
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フラッシュ撮影をしますと、水面に反射した光が多数の白い斑点となって輝きます。さながら歌姫たちの舞台にフラッシュライトが浴びせられたようです。 |
一方水面の方へピントを合わせて撮影しますと、水面の陽の当たる部分と影の部分のコントラストが鮮やかです。陽の当たる部分は水紋というのでしょうか、何とも言えない美しい模様を描いています。
上の写真は、ミヤコグサの水面に映る影を連続撮影したものです。3コマ/秒の速度での撮影ですから、1秒間における影の変化を見たことになります。下の花も上の花も、それらの影はかなり変化していることが分かります。たった1秒の間に、これだけ変化するものかと驚かされます。1秒間の出来事です。
流れる水面に落ちる影や反射する光のことを、あれやこれやと考えているうち、ふと2つのピアノ曲を想い出しました。ドビュッシーの「水の反映」(映像第1集)とラヴェルの「水の戯れ」で、ともに20世紀初めフランスで創られた水の美しさを表現した名曲です。私はいずれも以前に聴いたことがありましたが、あまり印象に残っていませんでしたので、今回両者の比較も兼ねて、何度か繰り返し聴いてみました。
双方とも、水の速やかに流れる様や静かに漂う光景の瞬時の美しさを、見えるがまま、感じるままに描いています。絵画的表現と言っても良いのかも知れません。特にラヴェルの曲では、高音を早いテンポで巧みに使うことにより、水しぶきを上げキラキラ輝きながら流れて行く急流の美しさが見事に表現されています。ピアノの高音は急流を表現するのに、ぴったりなのです。両者は非常によく似た曲ですが、その違いを敢えて言えば、ドビュッシーの曲は川幅がやや広くなった中流、ラヴェルの曲は川幅の狭い上流のような感じがします。 前述のように、ラヴェルの曲では高音中心に構成され、初めのうち低音はほとんど使われません。一方、ドビュッシーの曲では、ラヴェルのよりもやや低い音域の高音が用いられ、最初から低音も登場します。そのため、ややゆったりとした水の光景が思い浮かんで来ます。ラヴェルの曲でも、終わり近くになって低音が登場するようになりますが、少し川幅が広くなったことを示しているのでしょうか。
二人の音楽は、それまでの伝統的で古典的な作曲法にとらわれず、時には禁忌とされていたような手法を用いて、自分の感覚に忠実に、その場に漂う雰囲気や空気感のようなものを表現しようとしました。ちょうどその頃フランス画壇で、新しい大きな潮流となっていた印象派絵画の考えに通じるものがあり、印象派音楽と呼ばれています。しかしドビュッシーはそう呼ばれることを極度に嫌い、自らは「象徴派」と称したそうです。当時は未だ古典的な伝統的音楽が主流を占めていて、欧州で最も名門であったパリ音楽院ではそのような古典音楽を教え、最も栄誉ある賞と言われたローマ賞では、そのような作品の中から優れたものを表彰しました。ドビュッシーは10歳でパリ音楽院へ入学し、ローマ賞も受賞し、卒業後ワーグナーに心酔しますが、古典音楽に限界を感じるようになり独自の音楽を切り開いて行きます。1889年開かれたパリ万国博覧会で日本など東洋の音楽に触れ、自分の音楽へ吸収して行きます。ラヴェルもパリ音楽院へ入りますが、途中で除籍され、ローマ賞にもことごとく落選します。1905年に最後となる5回目の挑戦をしますが、それも落選します。
この頃ラヴェルは既に作曲家として一定の評価を得ており人気もありましたが、それでも落選したため、審査員らが彼の素晴らしい音楽を故意に拒絶しているのではないかと社会問題となり、結局パリ音楽院の院長が辞任するという事態に陥りました。 |
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彼らの創り出す新しい音楽は、当時の大作曲家や権威者からは酷評されますが、それでも自分の音楽を追求し続けて伝統音楽の殻を破り、後の近代や現代音楽へ大きな影響を及ぼすようになります。クロード・ドビュッシーは1862年フランスのサン・ジェルマン=アン=レーに生まれ、育ての親であった伯母の導きで音楽の道を歩むようになります。ドビュッシーの生涯で特筆すべきことは、とにかく女性遍歴が激しく、結婚、離婚、不倫を繰り返し波乱万丈の一生を送ったことです。そんな私生活のたいへんな中にあっても、「月の光」「亜麻色の髪の乙女」「子供の領分」「牧神の午後への前奏曲」など、私たちにもお馴染みの数々の名曲がよく創られたものだと感心します。 |
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とりわけ私は「月の光」が好きで、最も好きなクラシック音楽の一つです。1918年大腸がんのために亡くなりました。 |
モーリス・ラヴェルは1875年フランスのバスク地方で生ました。スペイン国境に近く、母がスペイン系の人であったこともあり、ラヴェルの音楽にはスペインの雰囲気があるといわれます。アメリカで起こったジャズなどの新しい音楽をいち早く取り入れ、ラヴェル独自の音楽を創造していきます。代表曲に「亡き王女のためのパヴァーヌ」「ダフニスとクロエ」「スペイン狂詩曲」などがありますが、最初はピアノ曲として書かれ、後に自らオーケストラ用に編曲したものが多くあります。 |
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編曲の才能も秀でており、自作だけでなく、ムソルギスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラ用に編曲したことも有名です。ラヴェルの作品のうち、最も有名なのが「ボレロ」でしょう。中学の音楽で習いましたが、同じメロディー、同じリズムが何度も繰り返されます。普通であれば、飽きてしまうところですが、最初は太鼓とフルートで始まり、徐々に楽器が追加されて来て盛り上がって行き、最後はフルオーケストラとなって終わります。退屈どころか、不思議な興奮を覚える名曲です。 |
さあこれから冷たい水が嬉しくなる季節、名曲を聴きながら真夏の太陽の光に輝く水と戯れてみませんか。
2024年7月2日
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)