名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

6月:小待宵草(こまつよいぐさ)

6月:小待宵草(こまつよいぐさ)

初夏のたそがれ、地を這う仄かな灯は、レモンイエロー―

夕暮れ時、草むらに群れて咲く小待宵草。柔らかなレモンイエローの灯に心なごみます。

 彼岸の日の923日、この日から季節はいっぺんに夏から秋へ変化しました。記録ずくめの猛暑だった今年の夏を忘れたかのように、朝夕は急に涼しくなりました。津市郊外の里山を自転車で走っていて感じる風は、昨日までの熱い南風から、ひんやりした北西の風に変わりました。それを受けて畔や野原などではいっせいに彼岸花が咲き始め、やっと普通の季節に戻ったように思いました。ところがその後残暑がぶり返し、記録的に遅くまで夏日が続いています。涼しくなって満を持して咲き始めた彼岸花も、何か跋が悪そうです。

 ところで920日より新型コロナウイルスのオミクロン株(XBB.1.5)に対応した新しいワクチンの接種が始まりました。この株は、欧米はもとより日本でも主流となっている変異株で、最近は三重県でも90%以上を占めているそうです。従来のオミクロン株に比べて症状に大差なく、重症化や死亡する人も少ないと言われています。それでは、この新しいワクチンを接種した方が良いのでしょうか?米疾病対策センターCDC)の報告では、このワクチンの接種により新型コロナ感染の発症を4050%防止できるとのことです。最近ではコロナ感染による死亡者は減っていますが、亡くなる方のほとんどは高齢者で、その多くがコロナ感染をきっかけとして持病の悪化することが原因です。したがって70歳以上の高齢者や、心臓や腎臓、脳などに持病を有する人にはワクチン接種をお奨めします。一方50歳以下で持病のない方は、敢えて接種することはないのではないかと考えます。

薄暮の中、道端に咲く小待宵草。薄黄色の小さなぼんぼりの様です。

 さて6月の花は小待宵草(コマツヨイグサ)です。初夏の日の午後、草花の写真を撮りながら自転車で2時間ほど走り回り、夕陽が山の端にかかる頃、家路につきます。あたりは薄暗くなり、我が家が近づくにつれペダルを踏む足にも力が入りますが、疲労で重く感じます。そんな時、ふと足を止めて道端の草叢を見ますと、薄暮の中で淡い黄色の小さな花が、地面を這うように咲いています。その柔らかなレモンイエローの仄かな灯を眺めていますと、何となくほっとして嬉しくなり、疲れも忘れます。小さくて目立ちませんが、見る人を和ませてくれる、それが小待宵草です。 

 小待宵草は、アカバナ科マツヨイグサ属の仲間で、その主なものの一覧を表1に示します。花の色が白いのが月見草、黄色が待宵草の仲間、桃色が夕化粧と昼咲月見草です。 昼咲月見草以外は、夜開花します。

表1マツヨイグサの仲間

 

 

 

 これらの仲間に共通する特徴は、大きく十字に開く「めしべ」にあります(写真左、矢印)。待宵草や小待宵草では「めしべ」も「おしべ」も花弁もすべて黄色で、見分け難いですが、サインは十字なのです。
写真: 左上:待宵草 右上:小待宵草    左下:昼咲月見草 右下:夕化粧

 

 さて待宵草の4種ですが、待宵草、大待宵草(オオマツヨイグサ)、雌待宵草(メマツヨイグサ)では背が高くなりますが、小待宵草は地面を這うように拡がり高くはなりません。いずれも黄色い花を咲かせますが、萎んだ後の花の色は、待宵草や小待宵草では朱色になりますが、雌待宵草や大待宵草ではあまり朱くなりません。

津市内の大きな道路端に育つ待宵草。郊外に多い小待宵草に比べ、背が高くシティボーイなのです。花が萎んだ後は、朱色になっています。

郊外の空き地ですくすく伸びる雌待宵草。

花は萎んでも朱くなりません。

地面を這うように拡がる小待宵草。

萎んだ花は朱色しています。

 待宵草と小待宵草を比較しますと、待宵草は背が高くて花も大きく色も鮮明な黄色で、よく目立ちます。それに比べ小待宵草では、背は低く花は小さくて薄黄色をしていて目立ちません。学生時代で例えるなら、待宵草は背が高くてハンサムで、勉強も運動もよくできる優等生、小待宵草は背が低くて猫背で、顔にはニキビがいっぱいで、いつも教室の隅でたむろしている冴えない学生というところでしょうか。でもそんな学生でも、心はやさしくて性格が良く、話すと面白くて楽しい、そんな人がたくさんいました。

 小待宵草の小さな花には、鮮やかな黄色と薄黄色の2種類あります。初夏のたそがれ時、それらの花が柔らかなレモンイエローの灯となって朧げに光り、見る者を癒してくれます。

水田(みずた)に初夏の茜(あかね)雲が映ります。畔には小待宵草の黄色い花が、ぽつんぽつんと咲いています。


陽の傾きかけた頃、小待宵草は咲き始めます。重い頭を「よいしょ!」と持ち上げているようです。「めしべ」は棍棒様で、まだ十字に開いていません。


何となく物憂げな小待宵草


夕暮れの水辺に憩う 小待宵草

 

 明治時代の小説家、国木田独歩(1871-1908)の書いた小説に「忘れえぬ人々」があります。中学校の時、国語の先生から奨められて読んだ覚えがありますが、内容をすっかり忘れましたので、今回読み直してみました。あらすじは次の通りです。

 3月の雨風の強い夜、小説家志望の青年(大津)は、夜遅く東京近郊の旅人宿(はたご)へ宿泊します。そこでたまたま隣室に泊まっていた画家志望の青年と知り合い、夜更けまで酒を呑みながら話し込みます。最後に大津は、書きかけの小説「忘れえぬ人々」のことについて話し始めます。
「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず」、この小説の冒頭の文章です。親、友人、  先輩、教師など恩義を受けた人は、忘れてはならない人ですが、忘れえぬ人とは、縁もゆかりもない赤の他人であっても、忘れてしまうことのできない人のことです。そして次の3人を挙げます。
1)19歳の春、体調を崩した私は、東京の大学を休学して帰省しますが、その途中、大阪から汽船に乗って瀬戸内海を通り過ぎている時です。船は穏やかな春の海を滑るように走り、デッキからは菜の花と麦の青葉で美しく飾られた島々が眺められます。ある島の側を通りかった時、潮の退いた磯で何やらしきりに拾っては籠へ入れている男の姿が目に入ります。23歩、歩いてはしゃがんで何かを拾い、それを黙々と繰り返している男、船が進むにつれやがて黒い点になりましたが、その人が1人目です。
2)ある年の正月、弟と一緒に熊本から大分へ旅に出かけた時のことです。阿蘇山噴火口の壮大な景色を見て回った後、下山して麓の村へ着きました。日は暮れて夕闇の頃、村の賑わいは格別で、大人たちは忙しそうに走り回り、子供たちは賑やかに遊んでいます。それを見て私は、何やら人懐かしい気持ちになりました。村のはずれにさし掛かった時、阿蘇の山々の上には月が煌々と輝き、蒼みがかった水のような光で村落を照らし出しています。その時遠くから、荷車の音と一緒に、澄んだ声で朗々と歌う馬子唄が聞こえて来ました。人影が近づきますと、245歳の屈強な若者が、手綱を引いて俗謡を詠っているのでした。「宮地や良いところじゃ阿蘇山ふもと」とわき目もふらず悲壮な声で歌う青年、夕月の光を背にして眺めたその若者が2人目です。
3)夏の初め、四国三津が浜に一泊した時です。朝早く宿を出て港や町を散策しました。青空には朝日がまぶしく輝き、港はたいそうな賑わいで、朝市の露店にもたくさんの人が押し寄せ、誰もが忙しそうで、面白そうに嬉しそうにしています。この土地に縁もゆかりもなく、誰一人知る人のいない私にとって、これらの光景は何となく異様なものに映り、世の中が何か鮮明に見えているような気がしました。無我の境地で雑踏の中を歩き、町の端の静かな所へ出ますと、琵琶の音が聞こえてきます。

近くの店の前で一人の琵琶僧が琵琶を弾きながら謡っています。年は40代半ば、幅の広い四角な顔をした背の低い太った男で、詠う声は沈んで淀んでいます。雑踏の人達は、この僧に目も向けず、琵琶の音にも耳を傾けません。琵琶僧と嗚咽する琵琶の音は、この狭い路地でごった返す雑踏と「ちぐはぐ」のようで、深いところで調和しているようにも感じられます。忙しく浮き浮きとして嬉しそうに面白そうにしている人々の、心の底の糸が自然の調べを奏でているようにも思われました。この僧が3番目の忘れえぬ人です。

琵琶

そして最後にこう結びます。
 夜一人机に向かっていると、耐え難いほどの孤独を感じ、無性に人懐かしくなってきます。その時、忽然と浮かんで来るのが、これらの「忘れえぬ人々」なのです。いやそうでなく、これらの人々を見た時の周囲の光景の中にある、これらの人々であります。我と他人と何の相違がありましょうか、皆、この世に生を受け、悠々と人生を全うし、相携えて天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来て、我知らず涙が頬を伝うことがあります。その時、我もなければ他人もない、ただ誰も彼も懐かしく忍ばれて来ます。私はその時ほど心の平穏を感ずることはありません。その時ほど自由を感ずることはなく、俗念が消えて、すべての物に対する同情の念の深い時はないのです。

 私は、2012(平成24)年の夏、モンゴルへ旅行しました。当時三重大学病院の院長であった私は、学長や他の先生方と一緒にモンゴルやウズベキスタンの大学を回り、学術協定などを結ぶためです。その時の旅行記を20128月三重大学病院ホームページのブログ「院長の部屋8:ほうせんか」の中にまとめ、私どもの拙著「続・院長の部屋から」(三重大学出版会 2014年)にも収載致しました。モンゴルの首都ウランバートルでは、大草原の中にぽつんと建つ「ゲル」に宿泊し、市内の観光地を見物しました。その時の印象は次の通りです。

 旅に出ると人が好きになります。いろいろお世話になった人々に対しては当然のことですが、偶然電車の中やレストランで出会った仲むつまじい家族連れや、市場で賑やかに野菜や果物を売る人々、モンゴルの草原で私達の馬を先導してくれた遊牧民の少年達などの明るく屈託のない表情を目にしますと、胸がジーンと熱くなり嬉しくなります。皆、与えられた風土の中で、時代の変遷に翻弄されながらも負けずに元気に暮らしている、日本の私達よりも苛酷な状況にあるかも知れない環境下にあっても、あるがままの姿で暮らす人々のたくましいとも云える生き方を、通りすがりに垣間見たような気がして共感し勇気づけられます。たとえ国や境遇が異なっても、人間皆同じように喜び、悲しみ、悩み、そして着実に生きている、旅に出るとそんな人間本来の愛すべき姿を再認識し、今更ながら改めて人が好きになります。

モンゴルの草原。中央に小さく見える白い建物はゲルと呼ばれる住居。

 この時、私は独歩の「忘れえぬ人々」のことは忘れていて、自分の感じたことをそのまま素直に書いただけですが、今読み返してみると独歩とよく似た心情を記しているように思われ、嬉しくなりました。ただし独歩の場合には、2番目と3番目の人のように、たくさんの人々がそれぞれの生活を慌ただしく送っている中で、一人異彩を放ち孤高を保つ人にスポットを当てています。私の場合には、普通の人が普通の生活をつつましく送っている、そんな姿を見て共感を覚え嬉しくなってきたことを綴りました。

 旅に出ますと私たちは非日常の世界に入り、街の人々の暮らしを少し離れたところから眺めることができます。そうしますと、仲睦まじい親子や市場で忙しそうに働く人々など、普通の人々が健気に屈託なく暮らしている姿が見えて来て、なぜか嬉しくなります。私たちの憧れる素朴で質実な生活、それを実践している人たちの姿に共感を覚えるからでしょうか。  

 これは何も旅先だけに限りません。私たちが普段生活している職場や社会、近所にもいます。普通の人が謙虚に誠実に生活しています。そういう人に接しますと、やはり嬉しくなります。また自分が驕り高ぶったり、調子に乗って有頂天になっている時、そういう人に出会いますと、「はっ!」と気付いて我に返り、自分が恥ずかしくなります。

小待宵草の花を眺めていますと、そんな人に会った時のような気持ちになります。

夏のたそがれ、地表を這うように咲くレモンイエローの柔らかな灯、私たちを嬉しくさせ、元気づけてくれます。普通の花が普通に咲いているのです。薄暗い中、道端でひっそりと・・・。

 

 最後に「SunPanSaの会」からの報告です。本年331日から526日まで「ウクライナ傷病者リハビリ支援」を目的としたクラウドファンディングを主催して参りましたが、わずか2か月弱の間に660人にも及ぶ多くの方々から温かいご支援とご寄付を賜り、最終的な寄付金総額は13,142,553円に達しました。多くの方々からのこの上ないご厚情に、改めて深謝申し上げます。410日にウクライナ傷病者とそのご家族を三重県松阪市に受け入れ、424日から傷病者3名に対し義手によるリハビリ訓練を開始しました。いただきましたご浄財の一部は、そのリハビリ訓練の費用と、ご家族2名を含めた5名の方々の生活費に使わせていただきました。3名の傷病者の方々は積極的にリハビリ訓練に励まれ、義手の操作にも習熟され、98日にはリハビリ治療を提供していただいた済生会明和病院にてリハビリ治療修了式を行い、911日、全員帰国されました。その後皆さんはお元気で、祖国のために頑張っておられるとのことです。この間の経緯を動画としてまとめ、三重県病院協会のホームページにて公開しましたので、お目通しいただきましたら幸甚に存じます。

ウクライナ傷病者リハビリ支援事業 – 一般社団法人三重県病院協会 (mieha.jp)

 現在私たちは、来年早々にもウクライナから新しい傷病者の方々をお迎えするための準備をしているところです。ご支援いただきました皆様方には重ねて御礼を申し上げますとともに、引き続きよろしくご支援、ご指導のほどお願い申し上げます。
                               
                             令和5930

               桑名市総合医療センター理事長  竹田  寛 (文、写真)             
                              竹田 恭子(イラスト)

 

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