5月:姫小判草
姫小判草(ヒメコバンソウ)
―朦朧体、その正体は小さな三角おにぎり―
今年の夏は暑いですね。気象庁の発表によれば、日本の今年7月の平均気温は25.96度で、観測史上最も高かったそうです。今までの最高が1978年7月の25.58度ですから、実に45年ぶりに記録を更新したことになります。東京では7月、最高気温が35度以上の猛暑日が13日もあり、これまでの最高の7日を大きく上回って過去最多となったそうです。とにかく暑かったですね。全国で熱中症患者が頻発し、まさに酷暑でした。
しかしこの猛暑、日本だけでなく、世界各地で起こっています。中国の新疆ウィグル地区では、7月中旬に最高気温が52.2度を記録したり、米フロリダ沖の海面水温も38度とお風呂並みになって海洋生物への影響が懸念され、欧州やシベリアなどではあちこちで山火事が発生し甚大な被害を生じています。世界的なこの猛暑、果たして何が原因しているのでしょうか。一つには地球温暖化、次に南米ペルー沖の海水温が上がるエルニーニョ現象、そして最も大きな影響を及ぼしているのが偏西風の蛇行と言われています。それでは偏西風の蛇行とは、どういう現象でしょうか。
日本や欧米など北半球の中緯度帯の上空には、西から東に偏西風が吹いていて、それを境に北側に冷たい空気、南側に暖かい空気が存在します。偏西風のコースは真っ直ぐではなく、地域によって北や南に蛇行して地球全体でみますと緩やかなサインカーブを描きます。夏に偏西風が平年より北へ蛇行した地域では、暖かい空気が拡がり、例年よりも気温が上昇します。世界中のあちこちで記録的な猛暑となっているのは、偏西風の北への蛇行の起こっている地域に多いのです。
|
異常高温に加え、ひとたび雨となればスコールのような強烈な雨が大量に降って洪水を引き起こします。日本の夏も亜熱帯地方のようになってしまったのでしょうか・・・。
さて5月の植物は、初夏の野道や野原、公園など、どこでも見かけるヒメコバンソウ(姫小判草)です。冒頭の写真で、画面斜め左下半分に朧げに拡がる緑色の部分が、ぎっしり密生した姫小判草です。ピントが手前のキツネアザミに合っているため、画面右下の部分は無数に粒々のあることが分かりますが、左奥の方は朦朧として霞んでいます。
下の写真は姫小判草とコバンソウ(小判草)が一緒に生育しているところを撮影したものですが、夥しい数の姫踊子草の小さな粒々が密集しています。
姫小判草は、イネ科コバンソウ属の植物で、欧州原産、日本には江戸時代に渡来したと言われます。イネ科の花の構造は複雑で、構成部分の名称も読み方さえ分からないほど馴染みのないものが多く、正しく理解できているかどうか自信ありませんが、姫小判草ではおおよそ次のようになっています。
直立した細い茎より疎に分かれた繊細な枝に、数個の小穂(しょうすい)が下垂し、円錐花序を形成します。 |
それでは本家本元のコバンソウ(小判草)はどうでしょうか。
|
|
1897(明治30)年頃、日本画の世界に「朦朧体」と呼ばれる画風が誕生しました。これは岡倉天心(1863-1913年)の指導の下、横山大観(1868-1958年)や菱田春草(1874-1911年)らが始めた画法で、日本画の表現法の特徴であった描線を廃し、色彩とその濃淡で空気や光線などを表現しようとしたもので、没線描法と呼ばれます。元々東洋絵画には、輪郭線を描かずに色彩や水墨を用いて直接モチーフを描く没骨(もっこつ)法があり、大観や春草らは色彩の没骨法と言うことで「色的没骨法」と称していました。きっかけは、天心に「空気を描く方法はないか?」と尋ねられたことで、大観と春草が苦労に苦労を重ねて辿り着いた技法です。例えば、画面全体に空刷毛(からはけ)を使ってぼかしたり、絵の具に様々な物を混ぜて質感を持たせるようにしました。
朦朧体で描かれた二人の絵画の代表作を下に示しますが、確かに大観の「夕立」では、不安定な雨雲の微妙な質感の違いや朧げな山里の光景が見事に描写されています。また春草の「菊慈童」では、深山の朦朧とした幽玄の世界が巧みに描かれています。確かに天心の求める「空気を描く」ということには成功していますが、ただ画面をぼかすことにより色調の鮮やかさが失われ、全体的にくすんで見えますので、当時の評論家たちは、縹渺(ひょうびょう)体や化物絵などと酷評したそうです。
|
1898(明治31)年、東京美術学校の校長を務めていた天心は排斥運動に遭い、弟子の大観、春草、下村観山(1873-1930年)らとともに学校を去り、東京谷中に日本美術院を発足します。しかしその経営は思わしくなく、1903(明治36)年には事実上破綻してしまいます。
1906(明治39)年、天心は別荘の有った茨城県五浦へ日本美術院の拠点を移し、天心、大観、春草、観山、木村武山らの5家族が共同生活を始めます。ちょうどコローやミレーなどのフランス・バルビゾン派のように、5家族が隣合わせに住み、すぐ近くに2つの研究所がある、そこで大観と春草は極貧にもめげず、朦朧体画法を必死に追求して行きます。イラストは、天心が五浦海岸に建てた六角堂ですが、ここで天心は読書したり瞑想に耽ったそうです。 |
五浦へ移動する2年前の1904(明治37)年、天心は大観、春草とともに渡米し、欧州を経て翌年帰国しています。その頃アメリカでは、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903年)やジョージ・イネスらのトーナリズム(色調主義)が流行していました。トーナリズムとは、輪郭線を使わずに、暗い色や青などの中間色の濃淡で描く風景画で、朦朧体とよく似た画法でした。左下の絵は、ホイッスラーの「青と銀のノクターン クレモンの灯」ですが、夕暮れ時の大河やその沿岸の光景を、青を基調としてその濃淡で描いていて、まさに朦朧体絵画です。さらに欧州では、印象派の画家たちに大きな影響を与えたジョセフ・ターナー(1775-1851年)の絵画を見て、自分たちの追い求めてきたものに間違いはなかったと確信を深めたそうです。右下の「真紅の夕陽」と題されるターナーの絵は、印象派の先駆けとなったクロード・モネの「印象・日の出」によく似ており、影響の深さが窺い知れます。
また大観や春草が朦朧体に取り組んだ時代は、西洋画の世界では黒田清輝がフランスから帰国して、印象派の画法を取り入れて外光派を樹立し、新しい風景画が誕生した頃でありました。また日本人の風景に対する感覚も、それまでの箱庭的、名所絵的なものから、より自然で広大な景観に美しさを感じるように変化しつつある時代でもあったと言われます。かくして日本画の世界に西洋画の手法を持ち込んで革新的な変革をもたらした朦朧体、当初は酷評されましたが、その後改良を重ね、現代日本画における表現法の基礎を築きました。
天心は50歳、大観は89歳、春草は弱冠36歳で亡くなっています。大観は酒好きで有名で、人生の後半は酒と少々の野菜しか口にしなかったそうです。その大観も若い頃は一滴も呑めず、天心が大酒豪でしたので訓練して呑めるようになったとのことです。それで90歳近くまで生きられたのですから驚きですが、取材などで「あなたは日本画の天才ですね」と褒められると、「いや、春草の方がずっと上手かった。彼が生きていたら、もっと素晴らしい絵を描いていただろう」といつも答えていたそうです。私の知る限り、37歳で夭折した天才芸術家はゴッホ、ロートレック、宮澤賢治ですが、36歳ながら菱田春草も加わりました。
さて医療の話ですが、新型コロナ感染は全国で漸増していますが、症状は軽症の方が多く、医療界は比較的平穏です。県内のあちこちの病院では、職員や患者さんの集団感染が起こっていますが、職員は自宅療養、患者さんは個室で治療するなどの措置により、大事には至っていません。ちょうどインフルエンザ感染のようです。
またサンパンサの会によるウクライナ傷病者リハビリ支援事業ですが、8月末には残っていた2人の方のリハビリ治療も終わり、ウクライナへ帰国されます。現在、次にどのような方をお迎えするか準備中です。したがって今回は双方とも休題とさせていただきます。
横山大観の「夕立」と菱田春草の「菊慈童」の絵画は、それぞれ茨城県近代美術館と飯田市美術博物館のご厚意により、デジタル画像をご恵送いただき、掲載許可をいただきました。ご尽力いただきました職員の皆様方に深謝申し上げます。
ホイッスラーの「青と銀のノクターン クレモンの灯」と、ターナーの「真紅の夕陽」の絵画は、Tate Britainのホームページよりダウンロードしました。
令和5年8月
桑名市総合医療センター理事長
竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)