4月:ニワゼキショウ(庭石菖)
4月:ニワゼキショウ(庭石菖)
―ウクライナ通信4:ストライプの服がおしゃれな控えめ佳人―
7月に入りました。沖縄ではとっくに梅雨は明けましたが、伊勢地方ではすっきりしない日が続きます。新型コロナ感染症も第9波の拡大期に入ったようで、私たちの病院でも感染者が少しずつ増えています。厚労省が6月30日に発表した定点把握による感染状況では、6月19日から25日の一週間における一定点医療機関あたりの感染者数は、全国平均6.13人に対し沖縄では39.48人と全国平均の6倍以上にもなっています。三重では6.32人で全国平均並みですが、それでも5月頃と比べますと3倍ほどになっています。
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そこで桑員地区の定点医療機関である私たちの病院において、この3か月間の新型コロナ感染の状況をまとめてみました(表1)。4月までは2類感染症でしたから検査数は多いのですが、陽性者や入院患者は非常に少ないことが示されています。5類感染症に移行された5月以降、検査数に対し陽性者数や入院患者数は増え、特に6月以降で顕著となっています。しかし肺炎を起こして重症化したり、亡くなった方は一人もいませんでした。確かに感染者は増えていますが、今のところそれほど心配することはないと思われます。 |
今増えつつあるXBB系の新しい変異株は、免疫を逃避するため感染は拡大しやすいのですが、重症化することは少なく、ワクチンも効果があるとのことです。そのため、私たち、特に70歳以上の高齢者は、ワクチン接種、マスクの着用、手洗いの励行など基本的な感染防止対策をしっかり行うことが大切です。自分の身は自分で守る」何度も繰り返しますが、健康に生きるための鉄則です。
さて4月、桜や菜の花、れんげなどの色鮮やかに花々が、里山を艶やかに彩る頃、野原や公園の草叢には、ニワゼキショウ(庭石菖)の花が秘かに咲いています。背が高くないので目立ちませんが、近づいてよく見ますと美しい花です。北米原産のアヤメ科ニワゼキショウ属の植物で、明治時代中頃に園芸用として輸入されたものが、野生化したそうです。
ニワゼキショウの花被片は、内、外それぞれ3枚ずつの6枚、色は白と赤紫の2種ありますが、基部はいずれも濃い赤紫色、さらにその奥は黄色をしています。一方、花被片は白色で基部の黄色いものがあり、セッカニワゼキショウ (雪花庭石菖)と呼ばれます。
ニワゼキショウの花で私が興味を持ったのは、花被片の外側です。鮮やかなストライプ模様になっていて、実におしゃれなのです。ストライプの服が良く似合う、控えめな佳人と言ったところでしょうか。 |
一方、ニワゼキショウよりも花被片が一回り小さく、色が淡い青色のものをオオニワゼキショウ(大庭石菖)と言います。花が小さいのにオオニワゼキショウと言うのは、草丈の高いことと果実が大きいからだそうです。ただ同じオオニワゼキショウでも、上の写真のように、花被片の色がほとんど白いものから青みの強いものまで幅があります。特に白色のオオニワゼキショウは、ニワゼキショウと区別することがしばしば困難で、しかも両者の混在する場所では交雑種も存在すると言われます。そのためオオニワゼキショウを独立した種とみなすことに疑問を投じる声もあるそうです。同様にニワゼキショウの他の多数の種類を厳密に識別することも難しく、本場アメリカでも混乱がみられるとのことです。
という訳で、しばしば見分けることが困難なニワゼキショウとオオニワゼキショウ、ここには両者の違いが明瞭な写真を並べました。
二ワゼキショウの仲間は、花の咲いている時、隣に果実がみられます。オオニワゼキショウの花と果実です。 |
さてニワゼキショウの「めしべ」や「おしべ」はどうなっているのでしょうか。
ニワゼキショウの花の中央部を覗きますと、黄色い葯を頂いた3本の「おしべ」は必ず見えますが、「めしべ」は見当たりません。時々、「めしべ」のような構造物が見えることもあります(写真右、水色矢印)。
そこで解像度の高いレンズで撮影しますと、下の2枚の写真が撮れました。
開花したばかりなのでしょうか、「おしべ」先端の黄色い葯は、新鮮な「生うに」か「数の子」のように見えます。その葯の間に、3本の透明な突起様の構造物がみられます(水色矢印)。これはいったい何でしょうか?
そこでニワゼキショウの花の構造を詳しく調べてみました。
ニワゼキショウの3本の「おしべ」は、「単体おしべ」と呼ばれる構造をしていて、花糸の下半部が合着して一体となり、紡錘形の組織を形成します。その中央部を「めしべ」の花柱が走り、先端の柱頭は3裂します。また「おしべ」と「めしべ」の先端は、ほぼ同じ高さに位置します。 |
ということは、上図の水色矢印の部分は、3裂した「めしべ」の柱頭に相当するのでしょうか。ただ透き通っていますので、普通に眺めただけでは見えないことが多く、たとえ見えたとしても1本ぐらいが部分的に見えるだけなのでしょうか。
写真で「めしべ」の柱頭が透明であるということに気付いた時、初めは「水滴でも付いているかな?」と思いました。しかし複数の写真で同じように映っていますので、間違いないと思います。そこで同様な記載や写真がないか、ネット上でいろいろ検索してみましたが、私の調べた限り、見つけられませんでした。
したがってニワゼキショウの花を普通に見ただけでは、3個の黄色い葯しか見えませんが(写真左)、それを単純に拡大した右の写真では、葯の間に、透明に光る小さな「めしべ」の柱頭が3個みられます。(黄緑の矢印は、花糸の合着部)。
ニワゼキショウの原産地は北米ですが、種類によってはメキシコや中米の国々を原産とするものもあります。メキシコ湾からカリブ海に面する国々です。私は若い頃、南の島に憧れました。イースター島やカリブ海に浮かぶ島々など、一度は行ってみたいと思っていました。そのためアメリカ留学中に、フロリダ半島の先端にあるキーウエストへ数度旅行したことがあります。そこからキューバを挟んで反対側にカリブ海があります。ヘミングウエイの小説「老人と海」や「海流の中の島々」の世界です。 |
憧れのカリブ海、そこに小さな島国、ジャマイカがあります。最近では、陸上100m、200m走の世界記録保持者であり、ロンドンなど3度のオリンピックで数多くの金メダルを獲得したウサイン・ボルトが有名ですが、もう一人忘れてはならない人がいます。
歌手であり社会活動家であったハリー・ベラフォンテです。今年の4月25日、ニューヨーク市の自宅で亡くなりました。享年96歳でした。
ベラフォンテは、1927年ニューヨークのハーレムに生まれます。父は仏領マルティニーク系の黒人、母はジャマイカ系の人で、ベラフォンテ自身も子供の頃ジャマイカに住んで祖母に育てられたとのことです。歌手をめざして修練を積んだ彼は、29歳(1956年)の時に「バナナ・ボート」が世界的に大ヒットし、一躍スターダムにのし上がります。 |
「バナナ・ボート」は、ジャマイカの荷役労務者がバナナを船に積み込む時に歌う労働歌を元にした曲で、日本では浜村美智子や江利チエミが歌っていました。私が小学校2、3年の頃でしょうか、“Day-o, Day-ay-ay-o ・・・ Day, is a day, is a day, is a day, is a day”と声高らかな掛け声がラジオから流れて来るのをよく耳にしました。ところが有名なその掛け声も、英語の分からない小学生には「テーオー、デイデーオー、イテテ、イテテ、イテテ、イテテ、・・・」と聞こえて、「どこが痛いんやろう?」と思ったものでした。他にも「マティルダ」や「さらばジャマイカ」などの数々のヒット曲を世に出します。ベラフォンテのコンサートを観た三島由紀夫は、その感想を次のように記し絶賛しています。
ここには熱帯の太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、素朴な人間の魂のありのままの表示がある。
またベラフォンテは、アメリカに古くから伝わる民謡や労働歌を拾い集め、再評価して曲を作るフォークリバイバル運動を推進し、その傍ら公民権運動やベトナム反戦、反核運動など数々の社会活動にも精力を注ぎました。1963年にはアラバマ州のバーミングハム市で、公民権運動中に投獄されたキング牧師を釈放するために保釈金を払ったそうです。1985年にはアフリカの飢餓救済のために,「USA for Africa」を提唱し、ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソン、スティービー・ワンダーなどのスーパースターたちに声を掛け、総勢45人によるチャリティ活動を行いました。その時作曲された「We are the World」を参加者全員で合唱するシーンがテレビで放映され話題となりました。
常に民衆のために、差別される人々のために、貧しい人々のために、人間の魂の歌を歌い続けたべラフォンテ、その張りのある美しい歌声には気品があり、この上ない「やさしさ」がありました。またしても惜しい人を亡くしました。
さてウクライナ通信、SunPanSa(サンパンサ)の会からの報告です。以前にもお伝えしましたように、ロシアのウクライナ侵攻により地雷に触れ、左手の肘から先を失ったウクライナ人男性(32歳)のリハビリ治療が終了し、6月24日帰国されました。母国には、奥さんと5歳と3歳の息子さんが待っているとのことで、今頃は久しぶりの再会を喜んでおられることでしょう。リハビリ治療は済生会明和病院で行われましたが、若いからでしょうか、通常ならば6か月かかるところを、わずか2か月で完了しました。今では義手を使って、後手で紐を結んだり、小さな豆を掴むこともできるそうです。「戦争が終わったら、家族一緒に日本を再訪問したい」そう言い残して帰国されました。後の2人のウクライナ人は、引き続きリハビリ治療を受けておられます。
一方、サンパンサの会では、ウクライナへ中古救急車を贈る活動も行っています。ウクライナでは傷病者を運ぶ救急車が著しく不足しているとのことで、サンパンサの会では、昨秋より全国各地の消防署へ手紙を書き、中古の救急車を譲って欲しいと呼び掛けています。この度、奄美大島帰国するウクライナ傷病者と支援の の瀬戸内町消防署より救急車寄贈のお申し出をいただき、上村正由理事長の出席のもとに贈呈式が行われました。様々な医療機器を装備した素晴らしい救急車で、神戸港から海路ウクライナへ輸送されます。これまでに、三重県度会郡大台町および栃木県宇都宮市の消防署からそれぞれ1台ずつ救急車を寄贈していただきましたので、これで3台目となります。ウクライナでの傷病者の移送が、少しでも安全なものとなりますことを願うばかりです。
令和5年7月5日
桑名市総合医療センター理事長
竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)