4月 タンポポ
―子供の頃見たタンポポは、今どこに・・・-
今年の桜は、開花してから天気の良い暖かい日が続きましたので、長く楽しめたようですが如何でしたでしょうか。桜の季節が終わり「つつじ」の花も咲き始めた矢先、熊本で大きな地震が起こりました。震度7を最高に震度4を超える地震が一週間以上90回も繰り返され、亡くなられた方は50名近くになったそうです。大学生など若い人達も多数犠牲になり、ほんとうに気の毒なことです。東日本大災害の記憶も冷めやらないうちに再び起こった大災害、日本はほんとうに天災の多い国であることを痛感します。亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り致しますと同時に、怪我をされたり避難所生活を余儀なくされている方々に謹んでお見舞い申し上げます。そして一日も早く元の生活が戻りますよう願ってやみません。
さて桜が終わり里山では春本番です。唱歌「春の小川」の世界です。この歌には「すみれ」と「れんげ」が登場しますが、もう一つ忘れてならないのがタンポポです。子供の頃、タンポポの咲く野道を歩いて登校したり、遊びに行ったことを懐かしく想い出される方もいるでしょう。タンポポは私達が子供の頃より身近な野草でした。春には当たり前のように咲き、その存在に気が付かないほど慣れ親しんだ花でした。
伊勢地方では4月も中頃になりますと田植えの準備が始まります。耕し終わった田圃には水が張られ、用水路には勢いよく水が流れます。休耕田では赤紫と白の混じった「れんげ」が一面に咲き始め、なぜか懐かしい気持ちが蘇ってきます。野道の土手や畦(あぜ)では、黄色のタンポポ、シロツメグサの白い花と緑の葉が賑やかなモザイク模様のように面を彩り、いち早く長く伸びたスイバの赤い穂が色を添えます。これら色鮮やかな野草たちは、季節 外れに強い南風に揺られて様々な音色を奏でます。まさに光と色彩のシンフォニーです。
タンポポはキク科タンポポ属の多年草で、日本には、古くから生育する在来種と、明治時代にヨーロッパから輸入された西洋タンポポ(外来種)の二種があります。その違いを花の形から区別することは難しいのですが、萼(がく)を見ると分かります。萼のことを正確には総苞片(そうほうへん)と云いますが、タンポポでは二層になっていて、内側を内総苞片、外側を外総苞片と呼びます。上の写真のように、在来種では総苞片は内外ともに上方に向かって先細りになっていますが、外来種では外総苞片が反り返って下向きに垂れます。在来種にはカントウタンポポ、カンサイタンポポ、トウカイタンポポなど地域に固有の種類と、白い花の咲くシロハナタンポポなど20種以上あります。
今から40年ほど前のことですが、西洋タンポポの増殖力が強すぎるため日本のタンポポは絶滅するのではないか、と話題になったことがありました。確かに西洋タンポポは、日本生態学会が定めた日本の侵略的外来種ワースト100に入っていますし、環境省も要注意植物として警告を発しています。ネットの投稿を読んでみても、見かけるのはほとんど西洋 タンポポで、日本のタンポポは滅多に見つからないと書いてあります。果たしてほんとうに日本のタンポポは絶滅あるいは激減したのでしょうか。
そこで私がいつも自転車で走る津市郊外の田園地帯へ出掛け調べてみました。タンポポの群の咲いている場所があり、一つひとつのタンポポの萼を観察しますと、意外なことにすべて在来種です。西洋タンポポ型のものは一つもありません。少し離れた田圃の畔や用水路沿いの土手でも同じ結果でした。密集しているものもポツンポツンと離ればなれに咲くものも、広大な田園地帯に分布するタンポポは、ほとんど在来型でした。これには驚きました。ネットの投稿記事とはまったく逆の結果だったからです。その後家へ戻り、庭に咲いているタンポポを調べてみますと、これは西洋タンポポ、外来種でした。私の家は津市の郊外に造成された住宅地にありますが、近くの公園で咲くタンポポの群も全て外来種でした。さらに市内にある実家の庭のタンポポも外来種でした。いったいこれはどういうことでしょうか。
タンポポの研究で有名な小川潔博士の「日本のタンポポとセイヨウタンポポ」(丸善出版、平成25年11月25日発行)という本があります。今までに全国各地で、学者や一般人、学生や児童などが参加した大規模なタンポポの生態調査が数多く行われていますが、それらの結果や自身の調査から得られた知見を総括したもので、次のように記されています。
1)外来種は市街地の中心部に多く、郊外に行くにつれ在来種が増加する。
2)市街地であっても、神社の境内など古くからの自然環境が保存されている場所には
在来種がみられる。
3)郊外であっても、造成された住宅地やゴルフ場などでは外来種が多い。
4)大群落の生育するのは、在来種では山林および田園地帯に多いのに対し、外来種は住宅地に多く、
工場地帯では外来種のみであった。
これで納得できました。私の調べた田園地帯では、在来種タンポポが生育するのに適した畔や農道が残っているため、ほとんどが在来種だったのです。一方、郊外にあっても造成された住宅地にある我が家や市街地にある実家の庭では、咲くタンポポは皆外来種だったのです。
ではなぜこのような現象が起こるのでしょうか。これにはいろいろの原因が考えられます。
一つには染色体の数に違いがあります。在来種では2倍体のものが多いのに対し、外来種は3倍体以上のものが多いのです。2倍体の生物は人間と同じように、減数分裂をして異なる2個の個体(父親と母親)から遺伝子を受け取って子孫が作られます。そのため2倍体の タンポポでは、別の個体から花粉を運んで来て受粉を促す蝶や蜂のような昆虫が必要となり、市街地よりも山林や田園地帯の方が生育に適しています。一方、3倍体の外来種では受粉は必要とせず母方の細胞がどんどん細胞分裂して子孫を作ります。いわば父親無きクローン 植物であり、蝶などの昆虫の少ない市街地でも増殖できます。しかも細胞分裂のスピードが早くどんどん種が作られますので、急速に増えていくのです。また在来種では春だけしか花が咲かないのに対し、外来種では冬を除き1年中花をつけます。これも両者の生育速度に差を付けている要因と云われています。
いずれにせよ子供の頃慣れ親しんだ日本のタンポポが、今も里山で元気に生育しているのを知り嬉しくなりました。一時はセイタカアワダチソウに席捲されそうになった日本の ススキも、最近は元気を取り戻し増えているとのことです。外来植物を毛嫌いする訳ではありませんが、日本古来の植物が元気で育っていると聞くのは嬉しいことです。
中部や関西より西にみられるシロバナタンポポです。純白の花弁が目に鮮やかですね。めしべなどが黄色いので中央部は黄色くみえます。外総苞片は一部反り返っています。
ところでタンポポの葉はどうなっているのでしょう。たまたま二つ並んだタンポポを撮った写真ですが、右側の葉には深い鋸歯状のギザギザがみられますが、左側のように比較的滑らかでギザギザの少ない葉もあります。これは種類による差ではなく、生育する場所の温度や日照などの条件の違いによるものと云われています。しかしこの2つは同じ場所に育ったのに何故こんなに違うのでしょうか?
タンポポと云えば、伊丹十三監督、宮本信子、山崎努、渡辺謙、役所広司、大滝秀司など豪華な出演陣による映画「タンポポ」がありました。伊丹十三監督(1933~1997年)は、1984年に長編映画監督として最初の作品となる「お葬式」を発表し、その年の映画賞を総なめにしました。「タンポポ」はその翌1985年に2作目として発表されたコメディです。長距離トラックの運転手の二人(山崎努と渡辺謙)は、タンポポ(宮本信子)の経営するラーメン店へふらりと立ち寄りますが、ラーメンは不味く、店の荒れているのに驚きます。
タンポポから店の再建を懇願された二人は、彼女を有名店に連れて行ったり、腕利きの調理人の指導を受けさせたりして、ラーメンの作り方を徹底的に修業させます。そして遂に行列のできるラーメン店が完成し、 二人は去って行きます。昔テレビ番組で、著名な料理人が客の来ない料理店へ出掛けて行き、実際に店主を指導して再興を促すというのがありましたが、それをヒントにして作られたそうです。 この映画の面白い所は、歯切れよく展開するストーリーもさることながら、本筋とはまったく関係の無い「食べる」ということをテーマにした様々な寸劇が、随所に散りばめられていることです。本筋が展開している最中、唐突に場面が変わりコミカルな寸劇が登場します。「食」に関する通念を皮肉ったり「性」との関連をセクシーに描いた面白可笑しい物語なのですが、決して煩わしくなく「食」をテーマとしたこの映画に彩りを添えています。そこに監督の才気を感じます。伊丹監督は、他にも「マルサの女」「ミンボーの女」など社会風刺を込めたコメディ・タッチの作品を多数世に出し一世を風靡しましたが、残念ながら64歳の若さで不審死を遂げました。伊丹監督はご存知のように、俳優としても個性的な脇役として長い間活躍しました。1983年には森田芳光監督(1950~2011年)を一躍有名にした映画「家族ゲーム」で父親役を好演しています。
高校進学をめざす受験生(宮川一朗太)と三流大学に7年間在籍する家庭教師(松田優作)、そしてその家族が織りなすブラック・コメディ調の映画ですが、森田監督の斬新な演出が光りました。とくに家族と家庭教師が横一列に並んで食事をするシーンには驚きました。私はこの映画を二度見ましたが、二度目で初めて松田優作(1949~1989年)さんの演技の上手さ、確かさに気付きました。ややもすれば大げさで不自然な仕草になりがちな演技でも、淡々と涼しげにやってのけ、わざとらしさをまったく感じさせないのです。将来日本の映画界を背負って立つ演技派俳優になると期待されていましたが、膀胱がんのため40歳の若さで夭折しました。今では三人とも故人となってしまい寂しい限りです。
さて新病院の建設工事の状況ですが、ようやく杭打ち工事が終わり、これから基礎工事に取り掛かるところです。杭打ちの際に固い岩盤があったため工期は少し遅れていますが、 今後は大きな遅れを生じる要因は少なく、速やかに工事は進捗して予定通り平成30年春には開院することができると思われます。どうぞ今しばらくお待ちください。
またこの4月から総勢85人もの新しい仲間が加わりました。今月刊行の桑名市総合医療センターニュース45号〈春〉は、新人の皆さんを紹介する特集号です。是非ご覧ください。いずれも元気で礼儀正しく、しかも心やさしい人達ばかりです。初めのうちは慣れないため何かとご迷惑をお掛けすることもあるかも知れませんが、数か月もすれば立派な医療人として成長致します。どうぞあたたかく見守っていただきますようお願い申し上げます。
さらに今までそれぞれの領域で優れた実績を挙げて来られた人達が、桑名に良い病院を 創ろうと駆けつけてくれました。強力な助っ人です。そのうちの一人は、三重大学医学部病理学教授を辞して副理事長に就任していただいた白石泰三先生で、専門の病理診断のほかに研修医や病院職員の教育を担当していただきます。また総括看護部長として着任されました野中時代(じだい)氏には、東、西、南医療センターの看護部を統一し、新しい看護部の組織と教育体制の構築に取り組んでいただきます。と同時に病院経営の改善にも力を貸していただけます。さらに西医療センター救急部長に着任されました佐々木俊哉先生には、救急専門医として本センターの救急医療の拡充に努めていただき、
新病院では理想的な救急医療センターを開設することをめざしています。私達も全面的に佐々木先生を応援し、桑員地区における救急医療の充実を図りたいと念願しております。
また前三重大学病院事務部長の宗近誠一郎氏には、昨年10月理事に就任していただき、 事務組織の充実と病院の経営改善のために尽力していただいております。この4月から事務部門も大幅に改組され、事務組織を統一するための準備が整いつつあります。
このように2年後の開院に向けて新病院の建設工事はほぼ順調に進み、理想の病院創りを夢見る人達が多数集まって来られました。これからが正念場です。職員一同力を合わせて 頑張りますので、どうぞよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)