名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

9月:百日紅(さるすべり)

せみなくやつくづく赤い風車        一茶  

開いたばかりの百日紅の花。赤紫の花弁6枚から成る風車(かざぐるま)。中央には 未だ成長していない「めしべ」と「おしべ」。くしゃくしゃ頭の赤子(あかご)のようです。

 新型コロナウイルス感染拡大の第5波は、8月から9月にかけて日本列島で猛威を奮った後、9月の半ばを過ぎて急速に減衰し、10月に入ると嘘のように静かになりました。緊急事態宣言はじめ様々な措置も相次いで解除され、少しずつ穏やかな生活が戻りつつあります。「やれやれ」といったところですが、なぜコロナ感染はこんなに急速に消退したのか、よく分かりません。不気味なほど静かになりました。でも鬼の居ぬ間の洗濯です。何時やって来るかも知れない第6波に備えて、今のうちに行政も医療側も万全の対策を講じておかねばなりません。そこで今回は、第5波での経緯を振り返り、第6波ではどのような準備をしておかねばならないか、私見を述べさせていただきます。

1)第6波はほんとうに来るのでしょうか?   
 第5波におけるデルタ株のように、感染力のきわめて強い変異株が新たに誕生すれば来る可能性はきわめて高くなります。一方英国では、新規の変異株は出ていないのに、10月に入って急速な感染再拡大が起こりましたが、その原因は行動規制の解除にあるようです。行動規制をどのようにして緩和していくか、再拡大を防ぐためには大切なことのようです。

2)第6波では第5波と比べどのように変わりますか?

ワクチン接種率がさらに上昇します  
 ワクチン接種終了者の割合をG7各国で比較したグラフを図1に示します。日本は68.3%でカナダ、イタリアに次いで3番目で、英、独、仏、米国を追い越しました。近いうちに80%超えると思われますが、そうなりますと第5波の時と比べ大きく事情が変わって来ます。ワクチン接種によりコロナ患者の重症化や死亡リスクを減らすことができるからです。

図1 G7各国におけるワクチン接種率の比較  (中日新聞10月23日付記事より引用)

 ② 種々の新規治療法を利用できるようになりました 
 軽症のコロナ患者に抗体カクテル療法を行えば、中等症へ進行することを防止することができます。さらに他の抗体を用いた治療法や経口治療薬が、まもなく使えるようになる見通しで、これらの治療法を迅速かつ適切に使えば、重症化には至らず軽症のままで終わるコロナ患者が増えます。

3)第6波に対する具体的な対策は?

 ① コロナ入院病床を確保するためには重症者を減らすことです

 コロナ患者が入院できず自宅療養や待機中に死亡するという痛ましい事例が、第4波では関西で、第5波では首都圏において頻発しました(図2)。コロナ患者がいつでも入院できるように病床を確保するためには、病床数を増やすか、入院患者を減らすかのどちらかです。現在全国の病院ではコロナ病床数をさらに増やすように対策が進められていますが、たとえ病床数が増えても、コロナ診療にあたるスタッフの人数は限られていますので、この方法には限界があります。もう一つは、中等症や重症患者を減らして入院患者を減らすことですが、そのためには軽症患者に抗体カクテル療法などを迅速に行うことが有効ですし、ワクチン接種率の進むことも追い風となります。今のところ抗体カクテル療法は限られた施設でしか行えませんが、より多くの医療施設で施行できるようにする必要があります。私達医師に課せられた最大の責務は、様々な治療法を活用してコロナ患者の重症化を防ぐことにあり、なるべく多くの医師にその機会を与えるべきです。

図2 コロナ患者の自宅療養死の推移     (朝日新聞9月25日付記事より引用)

   ② 自宅療養患者への手厚い診療が大切です 
 軽症患者が増えますと、ホテルなどでの宿泊療養や自宅療養患者が増えます。自宅療養者には相談する医療者がいませんので、常に不安を抱きながら孤立したまま療養しています。それを救うのが診療所の医師や訪問看護師による訪問診療や電話相談などで、そのような人たちが働きやすい環境を整備することも大切です。

 
 さて9月の花は「百日紅(さるすべり)」です。夏から秋にかけて百日もの長い間、紅い花を咲かせるものですから「ひゃくにちこう」とも呼ばれます。ミゾハギ科の落葉中高木で、幹や枝の樹皮がすべすべしていて、猿も滑りそうだからこの名が付いたのはご存知の通りです。実際は猿も鳥も滑らないそうですが・・・。

じりじりと照りつける炎天の下、高台の墓地に満開の百日紅。日本の夏を遠望しているようです。

 百日紅は、お寺の境内やお墓で咲いているというイメージが強いのですが、中国への留学僧が日本へ持ち帰ったからとか言われます。日本の暑い夏をお墓で静かに咲く百日紅、物騒がしい世の中をどのように思っているのでしょうか。
              炎天の地上花あり百日紅
                        高浜虚子

墓地に咲く百日紅

 

 百日紅の花(花序)は、いくつかの花が集まり、くしゃくしゃになって咲くものですから、1個の花はどうなっているのか、さっぱり分かりません。私にとって長い間の疑問でした。今回よく観察してみてようやく理解できました。

くしゃくしゃになって咲く百日紅の花

 百日紅の花は、通常6枚(まれに7枚)の花弁が輪状に並びますが、下方部には花弁はなく団扇状になります。冒頭の写真のように下方にも花弁があって綺麗に輪状に並ぶものは多くありません。中央部分に「めしべ」と「おしべ」がありますが、「めしべ」と黄色の葯のなくなった「おしべ」はよく似ていて、じっくり観察しないと識別できません。

団扇状に並んだ百日紅の花弁

「めしべ」(緑矢印)と「おしべ」

 
           散れば咲き散れば咲きして百日紅
                          加賀千代女

  

 

 百日紅の花が長く咲き続けるのは、咲いている花の側にたくさんのつぼみが控えていて、次から次へと花が開いていくからです。   

 

 

入道雲がよく似合う  百日紅


夏の高い雲の下、翼を拡げたように咲く百日紅


夏の夕陽を名残り惜しそうに見送る百日紅

 

 小林一茶(1763-1823年)は、文化文政時代に活躍した俳人で、松尾芭蕉、与謝蕪村と並んで「江戸の三大俳人」と称され、私達にもなじみの深い俳句をたくさん詠んでいます。

 

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

われと来て遊べや親のない雀

やせ蛙まけるな一茶これにあり

やれ打つな蝿が手をすり足をする

雪とけて村いっぱいの子どもかな

 一茶は一茶は自身の句の中で、子供や雀、蛙、昆虫などの小動物を、愛情を込めて描きます。   その視点は常に弱い者の味方です。そのような「一茶調」と呼ばれる情愛細やかな俳句を作った人ですから、さぞかし良寛さんのように善良なお爺さんで、穏やかな人生を送ったのだろうと思っていましたが、意外や意外、波乱万丈の生涯でした。
 一茶(本名:弥太郎)は、1763年北信濃の柏原に裕福な農家の長男として生まれました。3歳の時に生母を亡くし、その後父の再婚により継母と一緒に暮らしますが、折り合いが悪く不幸な少年時代を過ごします。唯一の理解者であった祖母の死後、継母との仲はいよいよ険悪となり、それを見かねた父は、15歳の一茶を江戸へ奉公に出します。その後10年ほどの消息は不明で、一茶も語ろうとしなかったそうですが、ただ「苦しかった」とだけ回顧しています。25歳の頃より俳諧の世界で頭角を現し、東北や西国への俳諧行脚や、俳諧や古典を猛勉強して俳諧師としての実力を磨き、徐々に全国的に知られるようになります。
 39歳の時、病に倒れた父の看病のため柏原へ戻りますが、父はまもなく死亡し、その後、遺産相続をめぐって継母や義弟と争いとなります。12年もの歳月を要してようやく和解に至った51歳の時、一茶は柏原へ移住しますが、遺産相続で継母や義弟と争ったことが尾を引いて、村人たちとはうまく行かず、本人もふるさとに対し被害意識を抱きます。それでも俳諧師として全国的に有名となった一茶は、北信濃に多くの門人を抱える俳諧師匠となり、父の遺産も相続して安定した生活を送ることができるようになりました。

 そこで一茶は52歳で初めて結婚します。最初の妻との間には4人の子供が生まれますが、皆2歳にもならぬうちに他界し、妻にも先立たれてしまいます。再婚した妻は3か月で離縁となり、自身も中風の発作を繰り返して言語障害を患い身体的にも不自由となります。それでも64歳になって3度目の結婚を果たしますが、翌年には柏原の大火により自宅を焼失して土蔵暮らしとなり最期を迎えます。享年65歳、一茶の死後、最後の妻から誕生した女児だけが無事に育ちます。
 一茶は生涯で21,200以上の句を作りましたが、芭蕉の956句、蕪村の2918句と比べますと、きわめて多作です。芭蕉や蕪村は、自分の感じたことの中から、極力自分を削ぎ取り、本質的なものだけを言葉にして「わび」「さび」の世界に到達しました。一方の一茶は、自分の感じたことや思いを率直に表現しました。その作風の違いも句数の差になったものと思われます。
 一茶は、子供や小動物などの弱いものや、蠅や蚊などの嫌われものに対しても、やさしい視線を投げかけて俳句を作っています。これには少年時代、継母にいじめられた哀しい思い出や、江戸での奉公時代に「田舎者」として馬鹿にされた辛い経験があったからだと言われます。と同時に、継母と義弟との間で遺産相続のため長年争ったり、晩年近くになっても妻帯するなど、生と性に対し執着心の強い人間臭い一面を持った人でもありました。

 

 

                               
           天文を心得顔の蛙かな

               きりぎりす声をからすな明日も秋

             

             
            紅粉(べに)付けてづらり並ぶや朝乙鳥

                   乙鳥は燕(つばめ)のことです。

    

    死んだならおれが日を鳴け閑古鳥

 閑古鳥(かんこどり)は郭公(かっこう)のこと、おれが日とは自分の命日のことです。客の少ない暇な店を「閑古鳥が鳴く」と言いますが、「かっこう」は静かな野山で鳴きますので、「かっこうが鳴く」ほど静かな店という意味なのですね。

閑古鳥(郭公)

 一茶54歳の時、最初の妻との間に長女「さと」が誕生します。一茶の代表的な俳文集「おらが春」の「添乳(そえち)」の章には、1歳の誕生日を前にした「さと」の愛くるしい姿が生き生きと描かれています。「口もとより爪先迄、愛嬌こぼれてあいらしく・・・」とベタ褒めで、今でも使われる「天窓(おつむ)てんてん」などの言葉であやしています。まさに「親バカ」です。その時詠まれた俳句のうち有名なのが次の2句です。

   蚤の迹(あと)かぞへながらに添乳かな

   名月を取ってくれろとなく子かな

 ところが「さと」は1歳の誕生日を過ぎてまもなく天然痘のため死亡します。深い喪失感に襲われた一茶は、自身の気持ちを次の句に託します。

           露の世は露の世ながらさりながら   (おらが春、露の世の章)

    さらに「さと」が死んでしばらく経った夏の日、一茶は副題に挙げたこの句を詠みます。

           せみなくやつくづく赤い風車     (八番日記)

 
  命の短い蝉が盛んに鳴く中を、赤い風車がくるくる回っています。赤い風車は、「さと」の好きだったおもちゃで、「さと」を偲びながら詠んだと言われています。ところが「おらが春」には、「さと」に風車を与えた時の記述がありますので、原文をそのまま引用します。おなじ子どもの風車といふものをもてるを、しきりにほしがりてむづかれば、とみに(すぐに)とらせけるを、やがてむしゃむしゃしゃぶって捨て、露程の執念なく、直ちに他の物に心うつりて・・・」。実際、「さと」は風車をあまり好まなかったようです。

 それはさておき、風車を「つくづく赤い」と表現した一茶は、この赤に消え去った「さと」の命を感じていたのでしょうか。私はネットで、「赤い風車」を百日紅の花になぞらえたブログに出会いました()。そこで自分で撮った写真を見てみますと、なるほど「赤い風車」です。殊に冒頭の写真では、赤い風車の中央に赤ん坊の顔が見えます。蝉が鳴き、赤い風車が回っています。そこに百日紅が咲いていたのでしょうか。一茶の脳裏に百日紅の花が咲いていたのでしょうか。私の勝手な想像に過ぎないと思います。ただお墓で、暑い夏、人々の繰り広げる喧騒を遠くで見守りながら静かに咲いている百日紅の花、それが赤い風車だとすると、あながち関連のないことのようには思えないのです。  

 

(※)サルスベリ(百日紅)&蝉  名句と迷句 – 里山で出会った風景 (goo.ne.jp)

                                                                                                            令和31028日                  

                                       桑名市総合医療センター理事長 竹田  寛 (文、写真)                            
                                                                                                         竹田 恭子(イラスト)

                
   

 

 

 

 

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