名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

8月:夏水仙

― 私のほんとうの名前を教えてください・・・その2 ―

夏の終わり、傾きを増した陽の光をいっぱい浴びて、ひときわ鮮やかに咲く夏水仙。

 今年の8月は、夏には珍しく梅雨のような長雨が続き、コロナ感染が日を追って拡大していく中で、オリンピック、パラリンピックが開催され、文字通り暑い夏でした。賛否両論のあった両大会の開催でしたが、何とか無事終わりほっとすると同時に、選手たちのあの笑顔を見ていますと、私個人的には無理をして開催して良かったのかなとも思います。

 さてコロナ感染です。第5波の拡大は、かって経験したことのないような勢いで、日本全国を席捲しました。東京や周囲3県はじめ全国至る所で、患者の急増により医療が逼迫し、施設や自宅での療養を余儀なくされる患者で溢れました。全国における自宅療養者は一時13万人を超え、そのうち40人を超える患者が7,8月の2か月間に適切な治療を受けられないまま亡くなっています。三重県でも1日あたりの新規患者数が500人を超え、入院患者も自宅療養者も過去最高を更新し、三重大病院では集中治療室がコロナ患者で満床となり、不急の手術を延期せざるを得ないという事態にまで陥りました。各地に発令されていました緊急事態宣言(19都道府県)やまん延防止等重点措置(8県)も、9月30日まで延長されましたが、その効果もあったのでしょうか、8月下旬にピークを迎えた新規患者数は、9月に入って急速に減少し、半ばを過ぎてずいぶん少なくなりました。私たちにとって少しは気を休められる状況にはなりましたが、感染者が減少しても重症患者はなかなか減らないという現象が起こっています。デルタ変異株による肺炎では、一度人工呼吸器を装着するとなかなか離脱することができない、すなわち肺炎が重症化すると回復するのに時間がかかるのだそうです。そのため全国どこの病院でも、今なお重症病床には余裕がありません。

 デルタ株による第5波感染拡大は、医療界だけでなく社会全体に深刻な混乱をもたらしました。少し鎮静化した今、これまでの経過を振り返り、私たちの考え方や措置は正しかったのか検証してみたいと思います。

1)コロナワクチンは効果あったのでしょうか?

 マスコミで盛んに報じられましたように、第5波における感染者は、圧倒的に60歳代以下のワクチン未接種に多く、ワクチン接種の進んだ65歳以上の人達にはきわめて少なかったことは、確かに感染予防効果のあったことを示しています。それでは重症化についてはどうでしょうか。第5波感染拡大時における東京都の死亡者のワクチン接種歴を図1に示します。423人の死亡者のうち293人(約70%)はワクチン未接種者で、ワクチン接種完了者は33人(8%)でした。ワクチン接種は重症化を防ぐことも明らかですが、ただここで大切なことは、ワクチンを接種しても1割弱の人が亡くなっているということです

図1 東京都におけるコロナ死亡者のワクチン接種歴(2021年9月18日付中日新聞より)

 ついで日本における人口100万人あたりの新規感染者数と死者数の推移を調べてみました(図2)。昨年9月からの1年間、週平均値の推移ですが、右端にあるピークがデルタ株による第5波を示しています。驚くことに、第5波による新規感染者数は、以前の拡大期に比べ数倍多いことが分かります。如何にデルタ株の感染力が強かったかということが示されています。死亡者数も増えてはいますが、従来の拡大時に比べ半分ほどです。

図2 日本におけるコロナ患者数、死亡者数の推移(週平均)(Our World in Dataより引用)

2)国民のワクチン接種率が上昇すると、コロナ感染は抑えられるのでしょうか?
 第5波拡大期当時、日本におけるワクチン接種率は40~50%ほどでした。さらに接種率が上がるとコロナ感染は抑えられるのでしょうか?そこで日本よりもワクチン接種の進んでいる英国、フランス、ドイツの3国における感染者数と死亡者数の推移を比較してみました(図3)。いずれの国においても、デルタ株による新規感染者数は、以前の拡大期に比べ少なく、死亡者も極端に減少しています。これら3か国におけるワクチン接種完了者は60%を超えていますので、確かにワクチンの接種率が上がれば、たとえデルタ株であっても感染は制御できるのかも知れません。これは確かなようですし、私もそう信じます。

図3 欧州3国におけるコロナ患者数、死亡者数の推移(週平均)(Our World in Dataより引用)

3)ワクチン接種先進国ではどうなっているのでしょうか?
 ワクチン接種がさらに進んで、国民の大多数がワクチン接種を済ませば、コロナ感染は完全に制御できるのでしょうか?そこでワクチン接種率が80%前後のイスラエルやシンガポールでの推移を調べてみました(図4)。意外にもイスラエルでは、今年5月以降ほとんどみられなかった新規感染者が9月に入って急増し、それにつれ死亡者も増えています。シンガポールも同様です。ワクチン接種率が高いのに、なぜ感染者が増えたのでしょうか?

図4 イスラエルにおけるコロナ患者数、死亡者数の推移(週平均)(Our World in Dataより引用)

 その要因の一つは規制緩和です。イスラエルでは、今年の春以降マスク着用や移動制限など様々な規制が次々に緩和されました。そのため人の密集する機会が増え、感染力の強い デルタ株によりワクチン非接種者を中心に感染が拡がったと言われます。
 もう一つは、ワクチン接種により得られた抗体が、時間の経過とともに減少することです。ファイザー社ワクチンのデルタ株に対する感染防止効果は、接種直後には95%ありますが、半年でほぼ半減するとのことです。ただし重症化予防率は90%前後で時間的変動はないそうです。そこで現在では、再び抗体量を増 やすために、現在3回目のワクチン接種が始まっています。

4)新しい治療法に期待が高まります  
 今、コロナ感染症に対する新しい治療法、抗体カクテル療法が注目されています。これはカシリビマブとイムデビマブという2種の抗体を同時に投与することにより、コロナウイルスが体内で増殖することを抑制します。感染早期のウイルスがまだ増えていない軽症期に投与しますと重症化するのを防ぐことができます。その有効性は70%を超えるそうで、発熱があっても翌朝にはケロッとしている人が多いとのことです。難をいえば点滴注射薬ということです。インフルエンザにおけるタミフルのように経口薬ができれば、自宅療養の軽症患者には朗報です。現在、欧米はもとより日本の製薬メーカーでもこの経口薬の開発に必死に取り組んでおり、そう遠くない時期に使えるようになると思われます。

5)これからはどうすればよろしいのでしょうか?   
 とにかくワクチンを接種すること、これは大原則です。ただし国民のワクチン接種率が80%を超えても気を緩めてはなりません。引き続き日常生活では三密の回避など感染対策に十分気を使い、集会などへの参加もワクチン接種証明書などの提示を必要とするものに限定するのが安全です。重症化を防止する経口治療薬が使えるようになりましたら、だんだんインフルエンザに近い状態になるものと期待されます。それまでもう少しの辛抱です。

 さて今月の花は、先月お約束しました夏水仙(ナツズイセン)です。葉が水仙に似ているからこの名が付いたのですが、華麗な花は無視されて不本意にネーミングされた気の毒な花です。夏水仙は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草(水仙も同じヒガンバナ科ですがスイセン属です)、お盆前後より50~60cmほどの真っ直ぐな花茎を伸ばし、先端に桃色の美しい花を4個ほど咲かせます。ヒガンバナの仲間ですから、花と葉は別々に現れます。彼岸花では花が枯れた後に葉が出て冬を越しますが、夏水仙では、春に葉が出て枯れた後に花が咲きます。

  反り上がった長い「めしべ」と「おしべ」が特徴の夏水仙

 江戸から明治時代に渡来した外来植物かと思っていましたが、はるか古くに中国から伝わった帰化植物で、そのため幾つかの地方名(八戸市のカラスノカミソリや神奈川県のピーピーグサなど)があります。ヒガンバナ科ヒガンバナ属の植物を総称してリコリスと言い、彼岸花、夏水仙、狐のカミソリのほかいろいろな園芸種が含まれます。一般的には彼岸花を除く花をリコリスと呼んでいるようです。

狐のカミソリ

夏水仙や狐のカミソリでは花弁はラッパ型に開きますが、彼岸花では大きく反り返ってカールを描きます。

彼岸花

 

 

開き始めたばかりの夏水仙。夕陽を浴びて初々しく輝きます。


木漏れ陽にライトアップされた夏水仙。ゆく夏を惜しむようです。


晩夏の午後遅く、ランタンのようにおぼろげに輝く夏水仙。

 
 オリンピックもパラリンピックも、私たちに多くの感動を与えてくれました。なかでも私が特に感銘を受けたのは、パラリンピック初出場の若干14歳の山田美幸選手が、背泳の100mと50mの2種目で銀メダルを獲得したことです。

 山田選手は、生まれつき両手が無く両足にも障害があります。そんなハンディを負いながら背泳をすること自体驚きましたが、その上パラリンピック史上最年少で銀メダルを2個も獲得するとは、まさに凄いの一言に尽きます。レース後のインタビューで、彼女の見せた笑顔は実に爽やかでした。この日のために懸命に努力を重ね、頑張って来た日々があったからこそ、あの明るい笑顔が生まれたのでしょう。「新潟へ帰ったら、白いごはんをなめ茸と海苔の佃煮で食べたい」屈託なく語る少女の夢は、外交官になることです。

山田美幸選手

 オリンピックに負けず劣らず数々の感動を生んだパラリンピック、今では国際的な大会になっていますが、ここまで来る道のりは平坦なものではありませんでした。とりわけ日本においては・・・。

グッドマン博士と中村博士

 日本パラリンピックの父と呼ばれる人がいます。九州大分の整形外科医、中村裕博士(1927-84年)です。九州大学医学部整形外科学教室へ入局した先生は、1950年、リハビリテーション医学の勉強をするために英国のストーク・マンデビル病院へ留学し、ルートヴィヒ・グットマン博士の指導を受けます。そこでは古くからリハビリテーションにスポーツを取り入れ、パラリンピックの起源となったストーク・マンデビル競技大会を1948年より開催していました。

 当時日本では、「身障者は家で寝て過ごすのが一番」と言われていた時代です。中村先生は、スポーツによるリハビリテーションにより、脊髄損傷患者の残存機能がみるみるうちに回復して強化され、半年のうちに社会復帰していく姿を目の当たりにして、大きな衝撃を受けます。帰国して早速、身障者の訓練にスポーツを取り入れようとしましたが、日本では「治療は安静が一番」で、患者にスポーツをさせること自体反対する人も多く、「身障者を見世物にするのか!」と声を荒げる人もいました。それでも中村博士は負けずに自分の患者さんや行政などを熱心に説得し、1961年10月22日、全国に先駆けて「第1回大分県身体障害者体育大会」を開催します。しかしこの頃社会的関心は低く、マスコミもまったく取り上げませんでした。「日本における認識を高めるためには国際大会に参加しなければいけない」と考えた先生は、1962年のストーク・マンデビル大会に2名の選手とともに参加します。日本から初めての参加ということで世界中に大きく報道され、日本でもパラスポーツへの 感心が高まり、厚生省もリハビリテーション医学に力を入れるようになりました。そして1964年、東京オリンピックの後に第2回パラリンピック東京大会が開催され、中村博士は日本選手団の団長を務めました。
 さらに先生は、身障者の社会復帰をめざして1965年別府市に「太陽の家」を開設します。作家の水上勉氏や評論家の秋山ちえ子氏の支援を得て、立石電機(現オムロン)の立石一真社長の理解と協力のもとに立石電機との共同出資により設立した会社です。障害者を雇用して通常の工場に負けない質の高い製品を生産することに努め、苦労して黒字化に成功し、後にソニーやホンダなどの大企業も参加するようになりました。また地域社会との交流を高めて障害者の自立を図り、現在では愛知県蒲郡市や京都市にも同様の施設が開設されています。

 私が小学校低学年の頃、今から60数年前ですから1950年代後半でしょうか、登下校の途中に一軒の古い家がありました。垣根越しに家の中の様子が見えて、庭に面した縁側に重症心身障害者が座っているのをよく見掛けました。背の高い痩せた青年で、いつも寝巻姿でした。よく見ると長い帯で柱に縛りつけられていて、帯の長さの範囲内で歩いたり座ったりして一日を過ごしているのです。初めて見た時にはびっくりしましたが、大人たちは当たり前のようにして通り過ぎて行きます。それが当時の日本でした。

 大学生の頃に、重症心身障害児施設を訪れたことがあります。障害児のお世話をする指導教員の先生方は、どのような気持ちで仕事をされているのか、お聞きしたかったからです。その時、中年の男性教員が淡々と語られた言葉を、今でもはっきり覚えています。「最初施設へ来た時には何もできなかった子供たちが、毎日少しずつ訓練を続けていきますと、そのうち自分でスプーンを持ってカレーライスを食べられるようになります。その時の子供たちの嬉しそうな顔を見ていますと、この仕事をして来てほんとうに良かったと思います。」

 中村先生はじめ、多くの人たちの忍耐強い努力によりめざましい発展を遂げたパラリンピック、選手の誰もが素晴らしい活躍をしてくれました。また障害者の社会復帰の道も開かれて来ました。今米国大リーグでは、二刀流の大谷翔平選手の活躍が話題になっています。彼のように何もかも恵まれた人もいます。一方、山田美幸選手のように大きなハンディを負いながらも大活躍する人もいます。見せる笑顔は、ともに自然で爽やかです。それはスポーツをする人の笑顔だからでしょうか。コロナ禍の長丁場にあって気分が滅入っている時、2人の美しい笑顔に巡り会って救われた気持ちになりました。

                                                                                                                                        令和3年9月23日                  

             桑名市総合医療センター理事長 竹田  寛  (文、写真)     
                            竹田 恭子(イラスト)

 

 

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