5月:つつじ(躑躅)
―三度目の正直、「つつじ」はちっとも悪くないのですが・・・ ―
5月も中旬を過ぎ、新型コロナウイルス感染も少し収束の兆しが見えて来ました。ゴールデン・ウイークの人出により全国的に感染が拡大するのではないかと心配されましたが、国民の誰もが外出を自粛したせいでしょうか、その後も新規感染者は減少する一方です。全国に発令されていました緊急事態宣言も14日には39県で、21日に京都、大阪、兵庫、さらに25日には東京都と近隣3県それに北海道と、すべての都道府県で解除になりました。最悪のシナリオに進展せず、国民すべてが安堵していると思いますし、私たち医療人としても「やれやれ、まずは一安心」と胸を撫で下ろしているところです。しかし油断は禁物です。何時何処で集団感染(クラスター)が発生するか予断を許しません。
この3か月、我慢続きの確かにしんどい毎日でしたが、貴重な体験でもありました。私たちは、三密の回避、不要不急の外出の自粛、外出時のマスク装着と帰宅後の手洗い励行、これだけをきちんとやれば、新型コロナウイルス感染は防げるということを学んだからです。私たちが規則に従い注意深く行動すれば、コロナに感染することはないということを立証してくれました。感染拡大の第2波、第3波が起こると云われていますが、これまでのように行動すれば、恐れることはありません。気分は少しリラックスしながらも、引き続き細心の注意を払って日常生活をお続けください。ワクチンが実用化するまでの辛抱です。それに特効薬が開発されれば鬼に金棒でしょう。もう少しです。
白と赤紫の花の入り混じった「つつじ」の大木。一本の木ではないと思います。
最近、医学的に興味深い報道が2件ありました。一つは、重症の新型コロナウイルス感染症では、全身の静脈内に血栓(血の塊)を生じることが多いというものです。例えば足の静脈内に生じた血栓が血流に乗って肺まで進み肺動脈を閉塞しますと、急激な胸痛や呼吸困難を生じ死亡することもあります。いわゆるエコノミークラス症候群と呼ばれる肺動脈塞栓症です。軽症の新型コロナウイルス感染患者が、自宅療養中に急に状態が悪化して亡くなられたというニュースが度々流れましたが、その中にはこの病気の方が含まれていたかも知れません。また血栓がどんどん増え続けますと、体の中でそれを溶かそうとする機序が働きますが、それが過剰になると全身性に出血を生じ、全身状態の急激な悪化を招きます。そのため日本血栓止血学会では、重症の新型コロナウイルス感染症の患者には抗凝固療法の併用を推奨しています。
もう一つは欧米からの報告で、新型コロナウイルス感染症の小児では、川崎病に似た症状を呈することが多いというものです。これに対し日本川崎病学会は、「日本や韓国などの近隣諸国では、今のところそのような症例はみられない」とコメントしています。どちらが正しいのか、さらに症例を積み重ねて検討する必要がありますが、この川崎病、いったいどのような病気なのでしょうか。
川崎病は、1967年に日本の小児科医、川崎富作先生が発見された病気で、日本人の名前の付いた数少ない病気の一つです。日本やアジアに多いと云われ、発熱、発疹、両側の眼球結膜の充血、手足の発赤や腫脹、リンパ節腫大、解熱後に手足の皮膚がむけるなどの症状があります。これだけなら「はしか」や手足口病など通常の小児急性感染症と大差はないのですが、この病気の特異的なことは、全身の動脈に血管炎を生じることです。ウイルスや細菌の感染が引き金となって免疫機能に異常が起こり、自身の血管を攻撃して血管炎を起こすと考えられています。とくに冠状動脈(心臓の筋肉へ血液を送る動脈)には高率に動脈瘤や狭窄を生じ、それが血栓などにより閉塞しますと、心筋梗塞を起こして突然死することもあります。心筋梗塞と云えば成人の病気ですが、子供でも起こることがあるのです。
私は若い頃、心血管造影や心エコー検査などによる小児心臓病の診断を専門としていましたので、川崎病の子供さんの冠状動脈造影を多数施行しました。 |
生後11か月の乳児。川崎病発症1か月後に行った血管造影(左図)では、右冠状動脈の広い範囲に拡張がみられます(赤と黄の矢印の間)が、1年2か月後の再造影(右図)では、赤矢印の部位で完全閉塞していました。 |
川崎病が発見された当初、冠状動脈の拡張や動脈瘤は高率にみられましたが、血管炎の治療に免疫グロブリン大量療法が用いられるようになってからは激減しました。
もし小児の新型コロナウイルス感染と川崎病が関連するのなら、そのような子供では血管炎を生じている可能性もあります。血管炎を起こしますと、動脈瘤の形成だけでなく血栓ができやすくなるため、重症化することも考えられます。それを防止するために、川崎病での治療経験が役立つかも知れません。このように新型コロナウイルス感染症そのものの実態が少しずつ分かって来ました。さらに解明が進めば、根本的な治療薬の開発に繋がりますし、重症化を防ぐための様々な治療法をみつけるために役立つものと期待されます。
さて今月の花はつつじ(躑躅)です。三度目の正直で「つつじ」となりました。と申しますのは、最初に「つつじ」にしようと思って準備したのは、4年前、2016年5月です。連日「つつじ」の写真を撮っていたのですが、「つつじ」の枝に巻き付くように咲いていた「すいかずら」の面白さに目を奪われ、何時の間にか「すいかずら」の写真ばかり撮っていました。2回目は昨年(2019年)5月、今度こそ「つつじ」と意気込んでいたのですが、たまたま近所の小川沿いに咲く小さな桃色の花を発見しました。以前より憧れていた「夕化粧」、世紀の大発見です。その可憐な姿にすっかり魅了され、また「つつじ」のことを忘れてしまいました。それで今年こそは、脇目も振らず(?)断固として「つつじ」と決めていましたので、ようやく実現の運びとなりました(実は、また危うかったのですが・・・)。まさに三度目の正直です。
「つつじ」は、漢字で躑躅と書きます。難しい字ですね。しかも植物の名前なのに、漢字には2つとも「草かんむり」ではなく「足へん」がついています。どうしてでしょうか?躑躅は音読みでテキチャクと読み、「あしぶみする」「躍り上がる」などの意味だそうです。中国の古文書に、植物の「つつじ」のことを羊躑躅(ヨウテキチャク)と云うと記されています。「つつじには毒があって羊が食べると躍り上がって死ぬ」とか、「羊がつつじを見ると毒が怖いので足踏みする」というのが由来だそうです。
ちょうど早春の奈良公園を彩る馬酔木(あせび、またはあしび)のようですね。馬がこの木の葉を食べると酔っぱらったようになってふらつくそうです。奈良公園では、鹿が馬酔木を避けて他の木の葉を食べるために、馬酔木が多く残っているのだそうです。 |
「つつじ」はツツジ属の仲間の総称ですが、その種類は、野生種、交配種など膨大な数になります。以前に取り上げました「三つ葉つつじ」や「しゃくなげ」もツツジの仲間です。一方、「さつき」もツツジの仲間ですが、三重県は「さつき」の苗木の生産量が日本一で全国シェアの約40%を占めるそうです。そのため子供の頃から「さつき」が身の回りにたくさんあって慣れ親しんで来たせいでしょうか、私自身もつい最近まで「つつじ」と「さつき」を混同していました。それで今回は、「つつじ」について「さつき」との相違点を中心として話を進めていきます。
「つつじ」と「さつき」の違いを上表にまとめました。
1)最大の違いは開花時期です。桜の終わる頃咲くのが「つつじ」、5月も下旬になって暑くなった頃に咲くのが「さつき」です。そのため俳句の季語は、「つつじ」は春、「さつき」は夏です。
2)下の写真のように、葉も花も木も何でも大きいのが「つつじ」、小さいのが「さつき」です。
葉の大きさの比較(左表、右裏)
3)「つつじ」は若葉の出る前に、蕾がいっせいに開き満開となります。
一方、「さつき」は若葉が出揃った後、蕾が少しずつ咲いて行きますので、満開のように見えても所々に蕾の残っていることがあります。
4)「おしべ」の数は,「つつじ」が8~10本、「さつき」が5本です。ツツジ属の花にみられる蜜標とは、虫を誘うために上の花弁にある派手な斑点模様ですが、「つつじ」では明瞭です。
さて「三度目の正直」ですが、私たちの桑名市総合医療センターも「三度目の正直」でようやく出来上がった病院です。ことの発端は、今から13年前の平成18(2006)年に遡ります。
1)桑名市民病院あり方委員会の設置
長年にわたる業績不振と膨大な累積赤字に苦しんでいた桑名市民病院(234床)の経営を立て直すために、平成18年1月医療関係者や有識者で構成される「桑名市民病院あり方委員会」が設置されました。そして桑名市民病院の将来像として、「病床数400床の急性期病院」、「非公務員型の地方独立行政法人」、「民間病院との再編統合」の三要件を満たすことが望ましいとの答申が出されました。
2)二度の話合い不調
これを受けて、桑名市民病院と当時桑名市内で最大の民間病院であった山本総合病院(349床)との間で再編統合に向けた話し合いが始まりました。元々両病院は、長年総合病院としてライバル関係にあり、しかもそれぞれの内科医と外科医は、同じ三重大学医学部ながら桑名市民病院は第3内科と第2外科、山本病院は第1内科と第1外科からと、異なる医局からの派遣でしたので、お互い交流が希薄でした。その上公立と民間病院ですから、制度も職員の意識も異なります。したがって両者の話し合いは難航を極め、結局二度不調に終わりました。そこで桑名市は、民間の平田循環器病院(79床)の間での統合を進め、平成21(2009)年10月、地方独立行政法人桑名市民病院が誕生します。これに対し、桑名市医師会、桑名市民病院の評価委員会、さらに桑名市議会は、「両院の合併だけでは、病床数や診療機能も不十分である。さらに山本総合病院との合併を模索すべきである」と反論を唱え、平成22(2010)年9月桑名市議会は、その旨の決議を致しました。この決議の効力は大きく、再び両病院で統合に向けた話合いの準備が開始されました。
3)「二度あることは三度ある」か、「三度目の正直」か?
平成23(2011)年1月、桑名市、桑名市民病院および山本総合病院の三者で「桑名市民病院と山本総合病院の再編統合に関する確認書」が締結され、統合に向けた三度目の話合いが再開されました。しかし両病院の隔たりは大きく、なかなか妥結できそうにありません。三度目の交渉も駄目かと思われていた矢先、後押ししたのが平成22年度の厚労省「地域医療再生計画」です。各都道府県において地域医療を活性化するための具体的な計画を策定するもので、ここに桑名市民病院と山本病院の統合計画が盛り込まれたのです。その頃私は三重大学病院長として、その策定委員会の委員長を務めておりました。委員会は、県内有力病院の院長や三重県医師会長、三重県病院協会理事長、三重大学医学部教授などの医療関係者それに一般市民の方々などで構成されていました。両病院の統合計画に対し、医療関係の委員からは「両病院は今まで競合関係にあり、統合に向けての話し合いも既に二度失敗している。うまく行くはずがない。二度あることは三度ある」と強烈な反対意見が続出しました。一方、厚労省や三重県は「官民病院の統合例として全国モデルとなる画期的な取組だ。是非とも実現させたい。三度目の正直だ」と意欲満々です。その板挟みにあった私は、両者の代表者と何度も何度も話し合いを重ね、統合への意志を確認しました。そして最終的には委員長裁量で採択とし、平成23年11月、両病院の統合案は厚労省に認められ予算化されました。国からの補助が決まったものですから、その後両者の話し合いは順調に進展し、翌平成24(2012)年4月に地方独立行政法人桑名市総合医療センターが誕生したのです。当時の私は、将来まさか自分が新しいセンターの理事長を拝命するとは夢にも思っていませんでしたが・・・。それから6年、東日本大震災や東京オリンピックなどによる建設費の高騰により、新病院の建設工事は思うように進まず苦労しましたが、予定より2年遅れて平成30(2018)年4月、ついに待望の新病院が完成しました。構想が始まってから、実に12年の歳月が経過していました。
上図は、最近7年間における桑名市総合医療センターの毎年のキャッシュ・フロー収支の推移を示します。平成25年から29年までは、組織的には一つになっていましたが、まだ新病院ができていませんので、古い3病院のままで医療を継続せざるを得ませんでした。老朽化した施設や設備のまま、医師や看護師なども分散して働いていたため診療の効率が悪く、毎年2億円ほどの赤字を計上していました。平成30年は新病院の完成した年です。高額の引越し費用と、開院前後数か月間の診療制限による減収のため7億円を超える赤字となりました。そして令和元(2019)年度、新病院が開院して2年目ですが、ようやく黒字となりました。私が当センターへ着任して7年目、初めての黒字です。
もちろん私たちは、儲けるために医療をしているのではありません。「医は仁術である」ということは今でも真実であり、私もそう信じています。しかし病院経営の健全化は、より良き医療を実現するために必須の要件です。収支が黒字化することにより職員の待遇改善が図れ、施設や設備の更新ができます。そうしますと優秀な医師や看護師などのスタッフが集まり、職員の診療に対する意欲も高まり、診療レベルも患者サービスも向上します。赤字では、まったく逆の負のスパイラルに陥ってしまいます。
今、全国の公立病院の半数以上が赤字だと云われています。さらに今回のコロナ災禍は病院運営に深刻な影響を与えています。私たちの病院も例外ではありません。一日も早く通常の診療体制に戻り、職員が皆、明るく張り切って働けるようになることを祈っています。
令和2年5月27日
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛 (文、写真)
竹田 恭子(イラスト)