名誉理事長の部屋令和6年9月1日付で、竹田寬先生に名誉理事長の称号が授与されました。

名誉理事長の部屋

9月:サギ草

 ―何たる造形の不思議! コンコルドも真似たかも・・・―

急降下する二羽の白鷺(しろさぎ)。それを見つけた子供たちが指差しながら見上げています。

 今年の10月は、度重なる台風や大雨により憂鬱な日が続きました。なかでも12、13日の週末に関東から東北の太平洋岸を縦断した台風19号は、各地に大雨と強風による被害をもたらし、7県の71河川で140か所堤防が決壊し、亡くなられた方 88人、行方不明7人となっているそうです(10月31日時点、NHK調べ)。さらにその前後の大雨や台風により、千葉県や長野県、福島県などでは二度も三度も浸水した地域がありました。氾濫した水がようやく引き復興に向けて動き出した矢先、再度襲われた浸水被害、被災地の方々の心境は知るすべもありません。ほんとうにお気の毒なことです。謹んでお悔やみとお見舞いを申し上げます。
 こんな訳で10月の降水量は、東日本や東北地方などを中心として記録的な数字となりましたが、平均気温も過去最高を記録した地点が全国各地に数多みられました。これは夏の暑さをもたらす太平洋高気圧が秋になっても本州南で強い勢力を保ち、日本列島に気温の高い空気が入り込んだためです。お茶の間で人気のある気象予報士の森田正光さんによれば、以前であれば9月で終わる天候がそのまま10月まで続き、季節が1か月ずれているそうです。そのため台風19号やその前後の台風も10月ではなく9月のコースを辿り被害が大きくなったとのことです。最近は春と秋が短くなった感じがしますが、実は季節が1か月ずれただけで秋の長さは変わらず、冬が短くなっているそうです。そういえば近頃では、東海地方でも紅葉は12月に入って真っ盛りというところも少なくありません。

 大雨と高温により散々な10月でしたが、そのうえ私個人的には、月初めより左側の頸部から肩、上腕にかけて疼痛を覚えるようになり、左手でキーボードを叩けなくなりました。電子カルテやパソコンで、細かい字を凝視しながら読んだり入力していたことが原因らしく10月の前半は右手だけで仕事をせざるを得ませんでした。そのため仕事の能率は低下し、言い訳めいて恐縮ですが、理事長の部屋の執筆も叶いませんでした。1か月経過して少し楽になって来ましたので、今、慌てて書いています。現在はハズキー・ルーぺをかけてパソコンに向かっていますので、字が大きく仕事はずいぶん楽になりました。やはり寄る年波には勝てないということでしょうか。それにしてもこの1か月間、肩や腕が痛いだけで気分はずいぶん落ち込みました。私は健康にはある程度自信を持っていましたが、このままではこの先大丈夫かと気弱になってしまいました。少し肩や腕が痛いだけでこれだけ気分が滅入るのですから、もっと重篤な病に苦しんでおられる患者さんたちの心境は如何ほどのものでしょうか。医療人として改めて認識を新たにさせられた次第です。

 さて今月の花はサギ草です。この夏、サギ草の鉢植えをいただきました。平たい鉢に、花芽をつけたサギ草がびっしり育っていて、お盆の過ぎた頃から咲き始めました。私の植物の師匠である先輩女性三人組のお一人からいただいたものです。それぞれ年齢は70代半ばぐらい、自然や草花が大好きで、特に野草には造詣が深くいろいろ教えていただきました。他の仲間とも連れ立って山へもよく登られるそうで、お会いした当初、「時間がない! 時間がない!」と口癖のように言っておられました。何の時間が無いのか不思議に思っていましたところ、何でも日本200名山の踏破を目指しており、そのためには残された時間が少ないのだそうです。今でも月に2度も本格的な登山へ出かけられることもあるそうで、そのうちのお一人はこの秋に300名山を踏破されたとのことです。凄い人達がいるものだと感心させられます。

 

 サギ草は、ラン科サギソウ属の多年草です。ランの仲間は世界中に数えきれないほどありますが、サギ草は日本固有種であり、古くから本州、四国、九州などの日当たりの良い低地の湿地に自生していました。最近ではゴルフ場などの開発により自生種が激減し、環境省の絶滅危惧種に挙げられています。代わりに園芸種が増えて私達の眼を楽しませてくれます。 

 サギ草などラン科の植物の花は、非常に複雑な構造をしていて、虫媒花の中でも最も高度に進化した形態をしていると云われます。ランの花の基本数は3で、萼(外花被)も花弁(内花被)もそれぞれ3枚ずつあります。萼は緑色をしており、中央で上方へ開く背萼片と、左右に拡がる側萼片から成ります。花弁のうち最も大きいのは白サギの形をして下方へ伸びる唇弁で、中央の胴体部分を中裂片、左右に拡がる羽の部分を側裂片と云います。残り2枚は、サギの尻尾の部分で直立して左右対称に開く側花弁です。左右の側花弁の中央背後に背萼片が位置します。唇弁の中裂片の根元の部分より、長さが3~4cmほどの距(きょ)と呼ばれる長い筒が弧状となって下方へ伸び、その底に蜜が溜まります。

花の中央部分は、「おしべ」と「めしべ」が合着して一体となっているため、さらに複雑な構造をしています。下の写真をご覧ください。
 まず「おしべ」に相当する部分ですが、薄黄色で左右対称に「ハ」の字型をしているのが葯室で、中に花粉塊が入っています。その両先端には白い球形のものがみえますが、これが粘着体で葯室の中の花粉塊と繋がっています。葯室の中央、葯隔の前方に三角形をした嘴体があり、その根元に距が開口します。 スズメガなどが距の蜜を吸うため入り口に顔を近づけますと、その左右にある粘着体が複眼などに付着し、花粉塊も一緒になって遠くへ運ばれます。
 つぎに「めしべ」部分ですが、両側の葯室の下方に緑色した柱頭があります。少し前方へ突出していますので、虫が顔や足に付けて運んで来た花粉を受粉しやすくなっています。また自身の花粉を葯室の中へ収めて保護することにより、自家受粉を防いでいます。

 
 距は細長い突起ですが、サギ草などのランやスミレ、ビオラなどの仲間やオダマキ、ツリフネソウなどにもみられます。通常内部に蜜腺を有し、分泌された蜜は底に溜まります。距が長く昆虫の口が短いと蜜は吸えません。昆虫の口が細い管になって長く伸びているものを口吻(「こうふん」と云います。蝶や蛾では長い口吻を持ち、普段は渦巻状に巻かれていますが、蜜を吸う時には真っ直ぐ伸びて長くなります。とりわけセスジスズメなどスズメガ科の蛾の口吻は長いので、サギ草の長い距にも十分に対応し蜜を吸うことができます。サギ草の距が長いのは、長い口吻を持つ昆虫だけを選んで蜜を吸わせているのでしょうか。

つぼみの頃から長い距がみられます。

アゲハ蝶の口吻

 

 

たいていは数羽が編隊を組んで下降します

地上の獲物めざし一直線です

垂直に急上昇するものもいます

 さてサギ草の胴体の部分ですが、私には超音速旅客機「コンコルド」に似ているように思われてなりません。特に頭から胴体への移行部あたりはそっくりで、コンコルドの設計はサギ草を真似たのではないかと思うほどです。コンコルドは、英仏の共同開発により誕生した夢の旅客機と云われ、パリとニューヨーク間を約3時間で飛行して従来の飛行時間を半分ほどに短縮しました。1976年より運用が開始され、16台ほどが就航しましたが、2000年7月25日にパリのシャルル・ドゴール空港で離陸滑走中に起きた死亡事故(犠牲者113人)や、航空需要の低迷により採算性が低いことなどの理由により、2003年に姿を消しました。しかしそのデザインの美しいことから今でも人気があります。   

コンコルドの機体に似たサギ草の胴体

 航空機の開発は、1903年アメリカのライト兄弟による世界初の有人動力飛行により始まりますが、単発のプロペラ機の時代に数々の勇敢な冒険家、いわゆる飛行機野郎が登場します。そのうち最も有名なのは、やはりリンドバーグでしょう。チャールズ・リンドバーグ(1902-74年)は、アメリカのデトロイトに生まれ、陸軍航空隊で飛行士としての訓練を受け、郵便機の操縦士になります。1927年、25歳の時にスピリット・オブ・セントルイス号と名づけたプロペラ機でニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に成功しました。飛行距離約5800km、飛行時間約33時間で、単葉単発単座のプロペラ機での成功は世界で初めの快挙でした。リンドバーグはこの成功で世界的な名声を得ますが、5年後には2歳にならない長男が身代金目的で誘拐され殺害されるという痛ましい事件が起こっています。太平洋戦争の終わった1953年、大西洋単独無着陸飛行のことを著わした“The Spirit of St. Louis”(邦訳:翼よ、あれがパリの灯だ)を刊行、翌年ピュリッツァー賞を受賞します。そして1957年、ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・スチュアート主演により映画化され、「翼よ、あれがパリの灯だ」という言葉は有名になりました。

 同じ1957年、飛行操縦士を主人公にした映画がもう一つ作られています。西ドイツで制作された「撃墜王アフリカの星」(監督:アルフレート・ヴァイデンマン、主演:ヨアヒム・ハンセン)で、第二次世界大戦時のドイツ空軍のエース・パイロット、ハンス・ヨアヒム・マルセイユを描いた作品です。私は小学校の3年か4年生の頃、父に連れられて見た覚えがありますが、ストーリーはすっかり忘れていましたので、今回DVDで60年ぶりに見直しました。第二次世界大戦でドイツが敗戦してからまだ10年も経っていませんので、映画ではナチスのことが極力表面に出ないような作りになっています。軍服を見てようやくドイツ軍と分かるほどです。兵士たちや家族の会話もフランクで、まるで古き良きアメリカ映画あるいはアメリカの戦争映画を見ているようです。相当気を使って製作されたのではないでしょうか。

 あらすじは次の通りです。勇敢で桁外れに航空機の操縦術に長けたマルセイユは、100機以上の敵機を撃墜して数々の勲功をたて、国民的英雄となります。しかし仲間が次々と撃墜されて死んでいき、自分が撃ち落としたために死んでいった敵機の操縦士のことを想うと、自分の任務に疑問を感じるようになります。そして次は自分が撃ち落とされる番だと不安におののきます。それでも結婚して束の間の幸せを得ますが、妻の反対を押し切り北アフリカ戦線へ参加します。編隊を組んで敵地へ向かう途中に、マルセイユの飛行機にトラブルが発生して操縦不能となり、脱出を試みますがパラシュートが機体に引っかかって開かず、そのまま砂漠へ墜落します。

映画「撃墜王アフリカの星」の冒頭の場面より

 主題曲「アフリカの星のボレロ」が映画の随所で流れますが、そのやや哀調を帯びたメロディは、戦争の悲惨と哀しみを静かに奏でているようです。第二次世界大戦の映画と云えば、私達の見たものはほとんどアメリカや連合国側から描いたものです。ドイツ兵は、ヒットラー率いるナチズムの厳しい統制の下、誰もが絶対服従で、個性や表情を露わにすることなく黙々と戦う冷徹な兵士として描かれています。敵方であるから仕方ないのでしょうが、しかしこの映画では、ドイツ兵の哀しみや苦悩を描き、平和を希求する家族を描いています。恐らくこれがほんとうの姿なのでしょうが、もしそうであれば、私達としても共感できますし、嬉しくもあります。当時この映画は西ドイツで大ヒットしたそうですが、ヒットラー政権が倒れて少し時間が経過し、ドイツ国民も落ち着きを取り戻して、今まで隠していた本音が描かれているからかも知れません。

 もう一人忘れてはならないのが「星の王子様」で有名なサン=テグジュペリです。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは1900年フランス、リヨンに生まれ、陸軍飛行部隊で操縦術を学び、民間航空界のパイロットとなります。1929年、29歳の時「南方郵便機」を書いて作家としてもデビューしました。1939年、第二次世界大戦で召集され、偵察隊へ所属し前線で戦います。翌年ドイツの占領下にあったフランス本土へ戻りますが、アメリカへ亡命します。亡命先のニューヨークから自由フランス軍に志願して戦争に参加、北アフリカ戦線などで戦い、航空機の着陸失敗により負傷します。1944年7月31日、フランス内陸部の写真撮影のために単機で出撃しますが地中海上空で消息を絶ち、44歳の生涯を閉じました。著書としては他に、「夜間飛行」「戦う操縦士」「人間の土地」など多数あります。

 さらにフランス人の冒険家で飛行士としてアンドレ・ジャピーという人がいます。1936年パリ-東京間100時間の懸賞飛行に飛び立ったジャピーは、佐賀県の上空で乱気流に巻き込まれ背振山中へ墜落します。瀕死のジャピーは地元背振村の人達により救出され、九州大学病院で手術を受けて一命を取りとめます。回復したジャピーは背振村の人々に感謝しながら帰国しました。この話は、その後長い間忘れられていましたが、元NHKアナウンサーで現在軽井沢朗読館館長の青木裕子さんが、いろいろな資料や言い伝えなどをまとめ、作家の高樹のぶ子さんの監修のもと「アンドレの翼」という朗読劇に仕上げられました。その公演は2013年に日仏両国で、翌年には津市も含めた日本の7都市で開催されました。日本語の担当は青木裕子さん、フランス語はフランスの女優、ヴァンダ・ベヌさんが担当しましたが、日本語とフランス語の朗読が絶妙のハーモニーを醸し出す素晴らしい朗読会でした。この話をもとにして、高樹のぶ子さんは「オライオン飛行」(講談社」という小説を書かれています。

朗読する青木さんとベヌさん

 

 

 

 さて病院の話題です。今回は、当センターの外科部長であり副院長である登内仁先生に、統合されて新しく生まれ変わった外科の診療活動について概説していただきます。
 外科は消化器、乳腺を診療しています。常勤医は11人でそのうち2人が外科専攻医です。消化器外科学会専門医が8人、消化器病学会専門医が7人、大腸肛門病学会専門医が3人、乳癌学会乳腺専門医が1人、乳癌学会乳腺認定医が1人、病理学会病理専門医が1人と専門性の高い医療を提供しています。
 治療対象臓器は食道、胃、肝胆膵、小腸、大腸、肛門、乳房です。統合後は食道がんに対する鏡視下食道摘出術、胃がんに対する完全鏡視下胃全摘術、乳がんに対する乳房形成術、痔核に対するアルタ療法などの手術を新規に開始し良好な成績を収めています。その他腹腔鏡下大腸切除術、腹腔鏡下胆嚢摘出術、腹腔鏡下虫垂切除術、腹腔鏡下鼠径(ソケイ)ヘルニア修復術などもこれまで同様に、術式によってはより改良された方法で実施しています。
 当院では病理専門医が常勤しており、がん手術の術中に迅速診断が可能で、乳がんのセンチネルリンパ節生検や胆道がん、膵がん、消化管がんの切除断端の浸潤のチェックが常に可能です。したがって安心してがん手術を受けていただくことができます。また当科では消化器内科と密接な関係を構築しており、ベストな治療を随時相談しています。       
 外科ではがん薬物療法、がん緩和、栄養、褥瘡なども専門看護師、薬剤師、栄養士と協力してチーム医療を実践しています。例えばがん患者様のターミナル期には医師だけではなく看護、薬剤、栄養の面からサポートしています。救急に関しては救急科と密接に協力してER診療にあたっており、ER経由の手術数も漸増しています。さらに放射線科と診断・治療に関しいつでも相談可能で的確な画像診断をもとに治療を開始しています。
 登内先生の記しますように、当院の外科は、新病院の開院により東と西医療センターの外科医それぞれ5人と6人が一緒になって11人となり、質量ともに素晴らしい臨床成績を上げています。何が良かったのかと云えば、その一つとして、人数が増えて個人1人当たりの負担が軽減されたことが挙げられるのではないでしょうか。例えば救急輪番の外科医としての当直も、両センターが別々に輪番を担当していた頃は、外科医の負担はそれぞれ1/5、1/6でしたが、統一後は1/11になりました。その分スタッフに余裕ができて、手術、特に緊急手術が増え、いろいろな新しい治療法も試みられ、入院患者数も増えました。すなわち5+6=11ではなく、20にも30にもなったことになります。
 現在全国の医療圏において、病院の統廃合が盛んに検討されています。「統合のメリットは?」とよく聞かれますが、当院外科での成功は、今後の病院統合の模範になるものと確信しています。
 最後に登内先生の言葉です。「今後とも外科一同で地域医療により一層邁進いたします。何卒よろしくお願い申し上げます。」


新病院開院後の外科手術数の推移

                                令和元年11月
                 桑名市総合医療センター理事長 竹田  寛 (文、写真)
                                竹田 恭子(イラスト)
 

 

 


 

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